Report レポート

  • 20248/8Thu
    第19回

    江原啓之

    (作家/オペラ歌手)

     第19回目の木曜塾は、江原啓之氏をお迎え致しました。昨年の5月にご出演下さった時と同様に、情報解禁と共に非常に多くのお申し込みを頂戴し、席数の倍以上のキャンセル待ちを承りました。キャンセル待ちとしてお待ち頂いた大多数のお客様のご要望にお応えすることが出来なかったことを、改めて深くお詫び申し上げます。
     会の翌日発刊予定の江原氏の新刊『大切な人を失ったときに-この悲しみはどうしたら癒えるのでしょう-』 (小学館)を湯川が紹介した後、会場の「えはら」コールと共に、色鮮やかなパッチワーク仕立ての浴衣風の服を纏われた江原氏がご登壇されました。幾つかのワンポイント・トークの後、昨年ご出演頂いた際に予言されていた“お米がスーパーから消える”話題となりました。巷では、6月頃から米不足の話題は頻繁に取り上げられていましたが、その理由は3ヶ月経った今でも定かではありません。異常気象による出来高の問題なのか、備蓄米の供給の問題なのか、出所不明の噂で買占めが始まっていたからなのか、真相はつかめないまま人々が価格高騰だけに翻弄されている現状です。前回も江原氏は沼津でお米作りをされていらっしゃり、皆さんに自給自足の生活を強く勧められていました。
     続いて、心霊研究者としてのお話となりました。スピリチュアリズムはハイとローの二つに分かれること、霊能者の見極め方、自然霊・神道の定義、正しい参拝の在り方、そして自分自身の守護霊の役割についてなど、スピリチュアリズムの第一人者ならではのお話を伺う機会となりました。加えて、日本文化である言霊を知る人が少なくなっていることへの危惧や、日頃、音として口に出してしまうと間違いなく不幸せになる音霊についてお話し下さいました。私達が日々の生活を健やかに過ごしていく為に、幅広い分野での示唆に富んだお話を、分かり易い形でご提供下さる江原氏ですが、最後に、いくつかのお祓いの方法を伝授して下さいました。
     神道では『振魂(ふりたま)』と呼ばれるもので、自分自身が身に着けている中で、一番大事な(自分の魂と一体化している)物を用いて行う方法です。(エイトスター・ダイヤモンドをお持ちの方は、是非、エイトスターで)手の中に入れたその一番大事な物を丹田の位置に構え、肩の力を抜き、地に足を付け安定させ、背中を真っ直ぐにして、自然な呼吸で、「“自分の魂が手の中で綺麗に綺麗に綺麗に磨かれていく”という想念を持って行って下さい」と江原氏は優しく包むような声で先導されました。数分の振魂の後は、もう吐き出せませんと言うくらいに息を全て吐き出し、また自然に吸いリラックス。参加者の方々は、会場内が明るく澄んだ時空となる体験をされていました。この他にも音霊を使ったお祓い等、江原氏もお話されたいことがまだまだおありのご様子でしたが、「また今度お話します・・・」と名残惜しい気持ちを抑えながら締めくくられました。
     「本当に有難うございました。もし私がちゃんと来年も木曜塾をやれていたら来年も必ず来て下さい。それを楽しみに生きていきたいと思います」との湯川の熱烈ラブコールに、会場は大きな拍手と歓声が起こりました。江原氏、有難うございました。

  • 20247/11Thu
    第18回

    コシノジュンコ

    (デザイナー)

     第18回目の木曜塾は、コシノジュンコ氏をお迎え致しました。新人デザイナーの登竜門『装苑賞』を最年少の19歳で受賞され、東京を拠点に世界中で活躍されています。超有名なファッション・デザイナーであるコシノ氏の、少女のように純粋な人柄に触れることが出来る機会となりました。
    「今日のゲストは、なかなか話を聞ける相手ではありません。存在そのものが凄いです。実際に存在して、その人がそっくりそのままその人だっていうのを見る。もうそれだけでも価値があると思います」という湯川の紹介でコシノ氏が登壇されました。
    著書『原点から現点』からも窺えるコシノ氏の創作活動の源、生きる姿勢について「原点っていうのは自分自身の基本ですね。世の中に踏み出した時の第一歩。デッサンから始まって現在というのは、毎日原点から現点、明日も現点。明後日も現点。今から未来にも繋がる」というお話から始まりました。そして次にスクリーンには、コシノ氏の創造の原点である、高校時代に描いた絵画や装苑賞の受賞作をはじめ、現在に至る多彩で挑戦に満ちた活動の全貌を紹介する過去最大規模の展覧会である巡回展『原点から現点』の様子を放映されました。会場では衣装やデザイン画、写真パネル、映像演出などが紹介され、約200点の作品を通してコシノジュンコの創造の軌跡を紹介しています。
    「私自身のコンセプトは対極。人間は両手を持っているように常にバランスをとります。一日で言うなら、昼と夜。色で言うなら、赤と黒、白と黒。形で言うなら、丸と四角。丸は宇宙を常に動いているということで、地球ですよね。四角は人間が考えている合理ということ」と、具体的にお話をして下さいました。続いて、琳派をテーマとして、能のお囃子、すり足で行った京都でのファッションショーのお話です。このショーは、『京都・パリ姉妹都市60年イベント』としてパリでも披露され、壮麗なルネサンス様式の市庁舎の建物の中で、京都の伝統が表現されました。「日本の在り方を見せたい。それを衣装で見せたい」という、日本人としての誇りと共に「人間的な交流が入っていく。国境を取る仕事。自分の経験が自分の中で終わるのでは無く、社会的にもっと活かされなければいけない」と、コシノ氏の強い信念と志をお聞かせ下さいました。
     お母様も含め、姉妹三人全員がファッションの世界に生きる家族。人生を振り返りながら、「家族に恵まれている、というのが一番の財産かな」と笑顔で話され、来年には、お母様がモデルとなった映画が、大地真央さん主演で上映されるとのことです。
    「自分の人生、どの時代が一番好きかと言えば、開拓時代ですね。やっぱり20代ってまっさらで何も無かった。だから何をやっても珍しかった。ブティックって名前が日本で最初なんてありえないでしょ」最後には「余計な話いっぱいしたから忘れてください」と、チャーミングな笑顔で締めくくられました。コシノジュンコ氏、楽しく貴重なお話と映像を有難うございました。

  • 20246/13Thu
    第17回

    イルカ

    (歌手/絵本作家)

     第17回目の木曜塾は、来年で楽曲の誕生から半世紀を迎える「なごり雪」で知られるイルカ氏をお迎え致しました。湯川の「人って、人のこと知らないのよね」との切り出しから始まり、「先代の田村社長が本当に大好きな方でした」とご紹介し、イルカ氏を檀上へお招き致しました。
     拍手で迎えられたイルカ氏に、ここでビッグサブライ ズ!! 中学の時からイルカ氏のファンクラブに入っているという筋金入りの信奉者、江原啓之氏が最前列から出迎えられ、会場は大盛り上がりとなりました。
     イルカ氏と湯川、先代の田村富保との出会いは、二人の著書がきっかけでした。本屋で目についた『地球はダイヤモンド(田村著)』がダイヤモンドのように光って見え、「なんて素敵なタイトルだろう」と思って隣を見たら湯川の『幸福(しあわせ)へのバラダイム』があって、(二人が夫婦とは知らず)両方買ったお話には、お 客様も驚きを隠せませんでした。イルカ氏によると、その頃から不思議なことが起こり始め、ご自身で楽曲『ケサランパサラン』を作ったお話や、青年だった頃の江原氏との出会い、江原夫人とのご縁、そして、「一生ついていこう」と決めた湯川との出会い等々、次々と偶然では考えられないような深いお話が続きました。その後、ドイツで20年間ルドルフ・シュタイナ一の勉強をされていた川手鷹彦先生のお話へと繋がります。母音の持つエネルギーや、言語造形術という先生の素晴らしい講座等を通じて学んだというお話に、古希を迎えても変わらぬ声の魅力の一端を伺い知ることが出来ました。実は、イルカ氏のご尊父は戦後とても人気のあったバンドのサックス奏者で、95歳になられていたご尊父は、昨年のイルカ氏のステージで、リハーサル時には重くて到底持てないと言っていたサックスを本番で見事に吹かれたというお話に、「イルカさんも95までは歌える」と湯川から熱いエールが送られ、会場の共感を誘いました。
     そして、いよいよ亡き田村との絆のお話に。エイトスター・ダイヤモンドのネックレスやブレスレットを、体調不良のご主人にプレゼントしたことや、田村のタイピンに収まっていたエイトスターを、イルカ氏の為に指輪にリフォームしたというお話をお聞かせ下さいました。
     締めくくりに、33年間続けている日曜日の朝のラジオ番組の中で伝えている”デザート世代”という言葉をご紹介下さいました。「人生をフルコースの料理と考えれば、最後に良いものがやってくる。自分達が少年少女の頃にやりたかったことを是非本気でやってみて!」と、ご自身が還暦を過ぎたからこそ言えるという、力強いアドバイスでした。
     最後には、ご自身のエイトスター・ダイヤモンドの指輪から放たれた、虹色の輝きから着想を得て作曲された 『ダイヤモンド』を特別にご披露下さり、湯川の目には大粒の涙が。そして、「まだ5分残ってるから・・・」と、湯川からの熱烈なオファーにお応え下さる形で、世代を超えて 歌い継がれている名曲「なごり雪」をイルカ氏のアテンドと共に全員で合唱し終演となりました。イルカ氏、本当に有難うございました。

  • 20245/9Thu
    第16回

    松元ヒロ

    (スタンダップ・コメディアン)

     第16回目の木曜塾は二回目のご出演となる松元ヒロ氏をお迎えしました。5月3日の憲法記念日に因んで、今回は、ヒロ氏の有名な持ちネタである「憲法くん」をお聴きしたい、という湯川の希望でご登壇頂きました。
     湯川の兄が出兵前に口ずさんでいたという曲「スリーピー・ラグーン(午後の入り江)」は、真珠湾攻撃の時には全米で人気音楽番付(ヒットチャート)では1位になっていたそうです。その曲と伴に、戦争で亡くなった兄との想い出が湯川の心には深く刻まれています。日本は敗戦し、後に日本国憲法が作られ、恒久の平和を念願しました。現在、ニュースで流れる世界情勢を見ても、また日本でさえ、取り巻く諸国の情勢や海域などの課題は楽観視で きないことばかりです、と二人の話は続き、ヒロ氏の有名な持ちネタである「憲法くん」へと繋がって行きました。
     「憲法くん」は、身体全体が「憲法くん」となったヒロ氏の自己(憲法くん)紹介で始まり、日本国憲法前文全てを訴えかけて会場を感動の渦に巻き込みます。
    「日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民と協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらはこれに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の内に生存する権利を有することを確認する。われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけて、全力をあげて崇高な理想と目的を達成することを誓う。」-日本国憲法前文
     前文を熱く語り終えた後、憲法くん(ヒロ氏)は次のような言葉で締めくくりました。
    「僕は今初心に戻りました。皆さんが頑張れと言われればまだまだ頑張ります。でもある一部の人々は私の事を自虐的だとかプライドがない、もっと誇りを持てとか仰います。でも私はこの77年間、たった一度も戦争という名前で他の国の人々を殺したことがない!そのことを誇りに思っています。しかしこの私をどうするかは皆さんが決めることです。私は皆さんの私なのですから。では私を今日の皆さんに託しましたよ。」とメッセージを託して語りを終わられました。
     下向き加減に目頭を熱くされていらした方も多く、改めて憲法くんを通して平和の意味を感じられていたのかも知れません。松元ヒロ氏、有難うございました。

  • 20244/11Thu
    第15回

    石井幹子

    (照明デザイナー)

     第15回木曜塾は、都市照明からライトオブジェや光のパフォーマンスまで幅広い光の領域を開拓する照明デザイナーとして、国内外でご活躍されている石井幹子氏をお迎えしました。東京藝術大学美術学部卒業後、見識を深めるために、1965年に日本を飛び出しフィンランドに向かったというお話は、その時代を考えると、強い意志の顕れだと想像します。
     戦後シベリアの収容所でお父様が亡くなり、お母様方の祖父母のもとで石井氏は育ちました。時代はまだ「女の幸せは結婚」でした。大学在学中もクラス36人中女性は6人。「どうせ君たちは卒業しても働かないから国費の無駄遣い」と教授から言われた時代です。
     卒業後、照明器具のデザインを手がけた時、照明に光が灯った時の光の素晴らしさに感動し、照明デザインへの意欲が生まれ、揺るぎ無い志となります。当時世界を席捲していたスカンジナビアデザインの本に掲載されていた女性デザイナーのリサ・ヨハンソン・パッペ氏に学びたいと、手紙と自分の作品集を送り、結果、フィンランドでアシスタントデザイナーとなります。横浜からソ連船でウラジオストック、そこから汽車、途中飛行機に乗り、モスクワから夜行列車でヘルシンキ
    に。そんな時代でした。その後、ドイツの会社にスカウトされ、そこで建築照明での実績を積みます。帰国して石井幹子デザイン事務所設立しますが、当時の日本は、機能的な明るさをとる照明が一般的で、空間を変えてしまうような照明デザインが認められるか未知でした。しかし、日本の錚々たる建築家たちに石井氏の照明デザインが認められ、大阪万博では5つのプロジェクトで寝る間も惜しむ忙しさでした。
     会場では作品を映像に映し出しながらご紹介くださいました。日本での代表作品は誰もが知る東京タワーやレインボーブリッジです。日本ではライトアップを広めるために8年間手弁当で色んな街を照明して歩いたそうです。最初に街の景観照明が実現したのは横浜市のライトアップ・フェスティバル。普段の夜の税関の建物の画像の後、照明した税関の画像が映されました。「光の効果って凄いんですよ。昼間は、太陽光線が満遍なくどれも照らしだしますけど、夜は、この街らしさを演出するものだけに光を当てていく。すると、その街の歴史が見えてくるし、またある意味では未来も見えてくると思うんですね。」と秘めた光への熱い想いをお話されました。手がけられた作品は数えきれず、世界中から100を超える賞を贈られたそうです。
     最後の映像は『ジャポニスム2018 エッフェル塔日本の光を纏う』です。日仏友好1 6 0 年を記念して、2018年7月から2019年2月にわたり、大型日本文化紹介事業「ジャポニスム2018:響きあう魂」をフランスで開催した時の作品です。照明家として海外で活躍されているお嬢様の石井リーサ明理氏と一緒にプロデュースされたもの。金色に輝くエッフェル塔に、尾形光琳の杜若を映した動画は圧巻でした!照明の世界で金色を描く事は究極の技だそうです。
     石井幹子氏、素敵な作品とお話を有難うございました。今後の光の世界でのご活躍をお祈りして閉会致しました。

  • 20243/14Thu
    第14回

    加藤登紀子

    (歌手/シンガーソングライター/女優)

     第14回目となる木曜塾は、歌手に留まらず幅広くご活躍されている加藤登紀子氏をお迎えしました。「昔は、シャンソン好きじゃなくあまり聞いていなかったんです」と、笑いを誘う湯川の話で始まりました。
     「お互いに戦争体験をしていても、歳が近いと思われてはお登紀さんがお気の毒です。終戦時には私は小学4年生(9歳)、お登紀さんは2歳半で満州(ハルピン)から引き揚げて来られました。」と、加藤氏の若さを強調して会場内にお呼びしました。
     ステージに上がられた加藤さんは早々に、終戦時に母親から『アメリカが上陸してきて辱めを受けるようなことがあったらあなたも私と同じように死ぬのよ』と自害の仕方を教えられた経験がある湯川に、「そんな強烈な体験を持つ人がアメリカの音楽を日本に紹介する人として第一線で活躍するんですよね…」と話され会場を沸かせました。そして、「シャンソンがあまり好きではなかった」という湯川の発言については、「戦後、シャンソンに流れていく傾向の人とアメリカの(音楽)方に流れていく傾向の人があって、どちらかというと陰と陽だった」と話され、戦争に勝ったアメリカとヒトラーに負けたフランスを対比させながら、しっかりプライドを守って抵抗を続けたフランスについて強調されていました。戦争への示唆に富んだ話を背景に、世界のスターになるためにアメリカに進出したフランス人のエディット・ピアフとドイツ人のマレーネ・ディートリヒとの関係、加藤氏の大先生でもある石井好子先生の意外なエピソード等々、お話は次から次へと飛び出しました。
     実は、加藤氏の獄中結婚のお話は有名ですが、湯川がお登紀さんに憧れるきっかけとなったのは加藤氏の著書『絆(獄中往復書簡、141通) 』でした。「こんなロマンティックな恋をした人って‘すげーな’」と、湯川には衝撃だったようです。「(獄中結婚された藤本さんって)いい男だったんでしょう?」との問いに、すかさず「とっても!」と照れながら応えられる加藤氏がとても魅力的でした。夫である藤本敏夫氏は学生運動の指導者でした。続いて加藤氏の古い著書に書かれた「いい男とうまく付き合う方法」について触れて、「いい男は他の人にも好かれる。ここが問題なのよ」と、パートナーとの関係を色々とお話し下さり会場は盛り上がりました。舞台上にお一人となった加藤氏は更にお話を続けられ、賛成派や反対派等「国が作り出すあらゆる分断に向かって断じて許さない、人々を分断するあらゆることに私は我慢しない」という世の中の情勢への強い意思を語られ、会場のお客様を釘づけにされていました。一途に歩まれて来られた人生は、お話を伺ってみないと知る由も無い道程でした。
     最後にギターを手にした加藤氏からはサプライズの歌「悲しき天使」と「百万本のバラ」が贈られました。ステラの会場で間近にお聴きする加藤登紀子氏の歌。なんて贅沢なひと時だったでしょう。有難うございました。

  • 20242/8Thu
    第13回

    東儀秀樹 

    (雅楽師/音楽家)

     第13回目となる木曜塾は、雅楽師・作曲家であられる東儀秀樹氏です。ステージにはスタンドマイク2本、エレキギター2本、ステージ横にピアノが並び、これから始まる演奏に皆が胸を躍らせる中、湯川の挨拶から講演会が始まりました。
     「東儀氏と初めてお目にかかったのは32年前だったと思います。当時はまだ無名の宮内庁楽部に在籍していた楽師でした。中国から伝わった雅楽というものを、1,000年以上に渡り継承し続けている家系にお産まれになられました。東儀さんの演奏は研ぎ澄まされたような雅楽の歴史を感じますが、それ以上に奥行きが広くて本当にあたたかいです。」早く対談をしたい湯川が東儀氏を壇上にお招きすると、片手に雅楽の楽器を持った東儀氏が颯爽と登壇されました。
     東儀氏は、「僕は皇居に勤めていたとか、1,300年続く雅楽の家系だとか、(周囲の人達に)皆さんの中に先入観が入ってしまっていて、ものすごく真面目で堅苦しい奴だと思われている。」湯川は間髪入れずに「だってそういう顔してるもん!」と返すと、「顔で判断しないでください!!」と、2人の漫才のような掛け合いに会場は笑い声に包まれました。「大抵の人は僕のことをそう思っています。面白いことを何も言わないというか、石橋を叩いて渡るタイプだと。僕は石橋があったらそれを飛び越えていくタイプです。でも、あまりそうは思ってもらえない。」多数のお客様が頷く様子を見た東儀氏は、「その誤解を解きたい!今日は皆さんのその思いを払拭します!」と力強く宣言し会場から拍手が起こりました。
     湯川が東儀氏のお父様と一緒にインドへ行った思い出話を伝えると、「父は普通の商社マンで、東儀家は母方の家系です。母が父に嫁いだ瞬間に雅楽をやる家系ではなくなっています。僕の幼少期に雅楽をやれと言われたこともないし、自分でも雅楽師になろうとは微塵も思っていなかった。父が商社マンなので僕は外国で育っていたし、雅楽の環境がより遠かった。ですが小学校の時から、『うちは雅楽の家系』ということは聞かされていた。」雅楽の環境から離れていても音楽が好きだった東儀氏は、「幼稚園の頃からビートルズが好きで、いつもビートルズのステージ写真を持って幼稚園に行っていました。父はクラシックが好きで、母はミュージカルや映画音楽が好きで、童謡を歌って聴かせてくれて、幅広い音楽を楽しみながら育ちました。小学校の後半からギターを弾き始めて、中学校の時にバンドをやるようになって、高校の時もバンド活動を続けていたので、将来は音楽の方面に行きたいと考えていました。高校2年の時に母から『音楽をしたいなら東儀家なのだから雅楽をやってみたら?』と言われて、ロックをやろうとしている高校生に雅楽を勧められたら、普通は『ふざけんじゃねぇ!』となるでしょ?でも海外に住んでいると日本人ということが浮き彫りになります。周りの友達が日本を誤解していると、それに対して逐一訂正をして、今の本当の日本を伝えたいという大使館員になったような気持ちになります。そこを経て大きくなったので、母に雅楽を勧められた時も、日本人が日本の文化を背負うってものすごく価値のあることだなと思いました。」雅楽を始めたきっかけは家系よりもご自身の生い立ちに起因しており、東儀氏の「好きなことはやり続ければいい」という言葉に、会場のお客様も深く頷き、熱意の籠った言葉一つ一つに深く頷きながら聞き入っていらっしゃいました。
     東儀氏のご子息、典親氏との共演ステージは圧巻の一言で、雅楽の楽器やギターやピアノをセッションされ、親子の息の合った演奏は然る事ながら、典親氏の
    15歳とは思えない立ち振舞いに会場は大いに沸きました。お二人の心躍る演奏に感謝申し上げます。東儀秀樹氏、有難うございました。

  • 20241/11Thu
    第12回

    大德寺昭輝 

    (アーティスト/天命庵主)

     第12回目となる木曜塾は、大徳寺昭輝氏です。年明けの恒例となっている大徳寺氏の講演会が今年も木曜塾で開催されました。
     「明けましておめでとうございます」と新年の挨拶をした湯川は、元日の能登半島地震に触れ「なかなかおめでとうとは言いにくいですね。辰年だからってどうして元日にあんなことが起こるのでしょう。干支には色んな意味があるのでしょうけれど。早くそのことを彼に聞いてみたい。」と大徳寺氏の登場を急く湯川は、時間が勿体無いと直ぐに対談へ移りました。
     湯川に辰年の意味を尋ねられた大徳寺氏は、「辰年は2月3日節分からで、正確にはまだ卯年です。特に昨年の卯年は『扉を開く』という意味がありました。思い返してみると政治の扉が開きました。宗教の扉も開きました。色々な扉が開いた後の今年は甲辰(きのえ・たつ)になります。甲と辰が重なるのは60年に一度で『物事が始まる』という意味があります。ですので『扉が開いて始まる』ということです。私は昨年、おやさまに大変なことが起こると言われて能登半島の珠洲市(すずし)に何度も訪れお祈りを捧げていました。」悲しみと悔しさを滲ませながら、大徳寺氏は昨年と今年の干支の意味を解説して下さいました。
     大徳寺氏が以前お話する機会のあった、とあるドクターから「子供はお腹の中にいる時に母親のDNAが入っていく。どうやって入っていくのか医学的には分からないけれど、男性も女性も母性を持ってこの地上に産まれてくる。」という話を大徳寺氏から聞いた湯川は、「確かに全ての命は母親から産まれてくる。この時代は男性性が強くて、どこも対立して戦うことを止めないけれど、争いが続けば人類の破滅しかない。それは全ての生あるものが破滅するということです。そのことの愚かさに私達が気付いて変わっていかなければいけない。その為にはどうしたら良いのか考えなければならない。」2人は混沌とする世界情勢を憂いて、葛藤する胸の内から何か答えを見つけようと熱く語り合いました。
     対談後に、元日の能登半島地震による震災と、二日に起きた日本航空機と海上保安機の接触事故への黙祷を、会場の皆様と共に捧げました。
     対談後はご自身の半生についてユーモアを交えて語られました。プロテスタント系の高校在学中に「あなたの聖書の解釈は素晴らしい。牧師になりなさい。」と教師から言われ、「私はお坊さんになります」と答えて周囲を驚かせた大徳寺氏。高校を卒業後すぐに天理教に帰依し、湯河原に天命庵という庵(いおり)を結ばれました。「世の中の皆様を正道に導きたい。その一心でずっと歩いてきました。」大徳寺氏の曇りのない瞳には確かな使命感が宿り、ご自身の選んだ選択に一抹の悔いも無いと話されました。社団法人設立の際は、自分の利益の為に事業を起こすことに難色を示していた大徳寺氏でしたが、とある高齢女性から「あなたのおかげで私は随分と助けられた。本当に幸せになった。私が生きている間に何かさせて下さい。でもこれはあなたの為にではないです。」この言葉を聞いた大徳寺氏はハッとなり、「そうか。私の為ではない。未来の為だ。」と、気付きを頂いた女性へ感謝が絶えないと話されました。
     先代・田村富保を思い出し、この場所(旧:天夢/新:ステラ)から色々なご縁が繋がったと涙ぐまれた大徳寺氏。新年から多くの学びとともに心温まる会となりました。大徳寺昭輝氏、有難うございました。

  • 202312/14Thu
    第11回

    DJ OSSHY

    (DISCO DJ)

     第11回目となる木曜塾は、クラブDJでご活躍中のDJOSSHY氏。フリー・アナウンサー、押阪忍氏と栗原アヤ子氏のご子息で、『エス・オー・プロモーション』代表取締役社長も務められています。クリスマス前の開催だった為、ステージ上には湯川が企画したクリスマス・プレゼントが並び、来場されたお客様の中にはサンタの帽子を被られている方々もいらっしゃったりと、クリスマスを先取りする煌びやかな空間に湯川も興奮しながらOSSHY氏を会場に呼び込みました。
     登壇されたOSSHY氏は「安心・安全・ディスコカルチャーの伝道師、またの名をDJ界の氷川きよしと自称しております。高齢者の味方だからです。更にお金では
    動かないことからDJ界の大谷翔平と、こちらも勝手に自称しております。」と、満遍の笑みで自己紹介をされ、冒頭から会場中が拍手と笑い声に包まれました。
     1977年に公開されたアメリカ映画『サタデー・ナイト・フィーバー』がきっかけで、日本中が“ポスト・ディスコ"(1970年代後半から1980年代前半にかけてのディスコ・ミュージックの音楽・ムーブメントを指す言葉)がブームとなり、その渦中の1981年に初めてディスコを訪れたOSSHY氏。「私の両親は全国区のアナウンサー・タレントで、テレビを点けると毎日必ず出演していて、父は『アナウンサーとは“クリーンなイメージ" 』ということを一番大事にしていました。その息子が非常にダーティーなイメージのディスコに出入りしている。若者にとっては人気の象徴として、まさにエンターテイメントの場ではありましたが、社会的には白い目で偏見を持って見られるような時代でした。いわゆる夜の世界。お酒や煙草、不良達が集う場所がディスコ。そこでDJをしていたら不良達のリーダーというイメージがあり、両親ともに大反対でした。何故そこに通い何故そこで働こうとするのか全く理解出来ない、両親からそう言われる時代でした。」その時代を知る湯川や会場のお客様は一様に頷きながら聞き入りました。「私が今まで約42年DJ業を続けてこられた原動力は、厳格だった父親に如何に認めてもらえるか、それだけを目標にして“あの手この手"で創意工夫をしてきたからです。2002年に親子で楽しめるディスコ・パーティーという企画を、私が現場で担当させて頂き、大変話題になりました。親子で同じ曲を一緒に踊って楽しむ、ディスコを休日の昼間に楽しむなんて考えられない時代でしたが、これを単発で終わらせるのは勿体無いと直感し、自分で企画して毎年行おうと決めました。最初は40人ほどからスタートしましたが、今では十倍の400人ほどになりました。その光景を見た父親が初めて『お前のやっていることは子供も楽しめるのか。子供も一緒に参加出来るのか。それは良いな。』と言ってもらえた。そこに行き着くまで20年かかりました。それまで父は口をきいてくれませんでしたから。親子で楽しめるということで初めて耳を傾けてくれました。」達成感と安堵の笑顔で語ってくださったOSSHY氏に、湯川も「嬉しいわね!それは本当に良かったわね~!!」とOSSHY氏の苦節20年を包み込む笑顔で応えました。
     OSSHY氏は全国の老人ホームや介護施設でシルバー・ディスコを開催しており、対談後は『座って楽しめるディスコ』を皆様にご体感頂きました。往年のヒット曲に合わせて皆で身体を動かすと、自然と不思議に笑顔が溢れました。音楽と踊りを融合したディスコに魅了され、活動を続けてこられたOSSHY氏の会は会場全体
    がキラキラな笑顔と熱気に包まれ、まさにクリスマスに相応しい会となりました。DJ OSSHY氏、有難うございました。

  • 202311/9Thu
    第10回

    中森じゅあん

    (鬼谷(きこく)算命学の大家)

     第十回目となる木曜塾は「日本算命学会」代表の中森じゅあん氏です。「40年来の友達で算命学の大家です」と、湯川から紹介され鮮やかな青い衣装に身を包 んだ中森氏が登壇されました。湯川から椅子に座るよう促された中森氏ですが、「座ると寝てしまうから」と断わられ立ちながら対談が始まりました。
     「算命学を話す前に何も知らない初心者でも分かるように」と湯川が切り出します。「占いというのは紀元前からあって、世の中に占いというのは3,000種類以上あるそうです。占いを大きく3種類に分類しますと、一つは 生年月日、生まれた星で占うもの。算命学も宿曜占星術も数秘術も九星気学もそうです。二つ目は卜術(ぼくじゅつ)という偶然の要素を使って占うもの。全ての事象は必然で起こっているものだから。タロットやルーンや易学、おみくじもそうです。三つ目は相術といって手相です。お化粧をどうしたら良いかなどを顔相と言ったりします。玄関をどうしたらいいか、方角はどうしたらいいかなどの風水も相術です。」湯川が占いについて説明をしている間に、中森氏は算命学で観た湯川の結果をホワイトボードに貼り付け、算命学を話す準備を整えました。
     「宇宙の法則に沿って生年月日というものを星に変えて、4,500年以上前に中国で陰陽五行説というものが生まれました。それは中国が世界に誇る思想哲学です。そのお手本は全部自然です。天地合体というのは時間と空間を併せたものです。こんな話をすると面倒臭くてややこしくなりますが、実際に私たちは自然の法則・宇宙の法則・森羅万象の中に生きていながら全然違う生き方をしている。算命学が教えていることは、自然の法則・宇宙の法則を全部一つにして、一人一人の生年月日からそれぞれの生き方を分かるようにしたものです」。算命学では湯川は“雨”、中森氏は“灯”で相性は悪いそうです。「それでなぜ40年も友情関係が続いているの?」と湯川が尋ねると、「要するにバランスです。人生と同じで良いものばかりが自分を助けてくれると良くない。森羅万象とはそういうことです。」一つとしてみた時に良し悪しを含めて全てある状態が一番いいのだと中森氏は話されました。湯川は先代の田村が“金”だったことを思い出し、自分が“雨”では錆びてダメだったのかと中森氏に尋ねると、「違います。逆に田村さんがあなたを人間として強くしました。」と答えられ、「そして今年は雨の年です。あなたにとって色々な意味で新たなスタートとなった年です」。それを聞き今年は大変な年だったと湯川が 思い出しながら話すと「あなたは王様だから楽をしたらダメなんです。エネルギーが凄く強い。エネルギーが強いということは困難に遭ってこそ活きる訳です。」中森氏の言葉に湯川は頷きながら聞き入っていました。
     運という字をどう思われるかと中森氏は観客に聞き、「右は軍隊です。左のしんにょうには行くとか立ち止まるという意味がある。運というのは本来は戦いです。戦うと言っても戦争をするとかではなく、ストラテジー(軍略) ということです。人生戦略。楽なことばかりだといずれ大変なことが人生にやってきます。それには自分を知って相手を知って、あるいは経営者であれば部下を知って、家族であれば一家の全部の星を知って、そうすると色々な人の持って生まれたものが分かります。」中森氏の算命学は日頃滅多に触れることの出来ない貴重な体験となりました。中森じゅあん氏、算命学の神髄をお話下さり有難うございました。