Report レポート

  • 202411/14Thu
    第22回

    中川秀直

    (政治家)

     第22回目の木曜塾は、内閣官房長官(第66 代)、自由民主党幹事長(第39代)、自由民主党政調会長(第47代)等を歴任された中川秀直氏をお迎え致しました。
     「今日聞いて頂くお話は、本当に貴重だと思います。そして私が大好きな人でもあります」との湯川の紹介で、中川氏がご登壇されました。中川氏は、「私はかつて科学技術庁長官という原発推進の責任者で、原子力委員長でもありました。2 0 1 2 年に政界を引退して今、湯川さんも幹事で頑張って下さっている原発ゼロ・自然エネルギー推進連盟の副会長です」と初頭のご挨拶をされました。そして、「今まで原発必要論者は、日本の原発は絶対安全、コストは他のエネルギーと比べて一番安い、CO2を出さない永遠のクリーンエネルギーだと言ってきた。これが、全部ウソだとわかった」と小泉純一郎元総理大臣がお話されている動画を上映して下さいました。
     資源のない日本、原子力の平和利用が必要。しかも安全で安いなら、核燃料サイクルも必要と信じていた小泉氏も中川氏も、2011年の福島の事故で考えを改めたそうです。壊れるはずのないものが壊れた。それでも尚、安全神話は続き、壊れたのは想定外として、誰も責任をとっていないのが現状だったようです。
    「かつて自分のやった原発推進の施策は、全く間違いだったと思い知りました。心から反省して、責任が重かった分、その償いの意味でも原発ゼロに、あらゆる努力をしようと決意したのであります」と中川氏は声を大に明言されました。そして、次のような決意をお話されました。
     「原発は温暖化対策として有効ではなく、事故原発は石棺にするしかない。核廃棄物も地下に埋めるしかなく、災害列島日本では処分はできない。内閣府の有識者懇談会が2020年4月に公表した日本海溝・千島海溝沿いにおける最大クラスの震度分布・津波高等の推計では、マグニチュード9クラスの地震を想定し、津波高は30mにも及び、被害エリアに原発は12基もあります。重要なのは決断なんです。今世界は、自然エネルギーが急拡大していて、国際再生可能エネルギー機関の試算では、2050年には自然エネルギーは全体の8,9割に高まる。つまり、原発が無くても十分にやっていける。我々原自連は、自然エネルギーを6割くらいにしなきゃいかんと提言しました。一刻も早く原発の停止処理に入らなければいけません。
     生き残っていく為には自然生態系との多様な協調、共存しかありません。日本の産業界は、日本気候リーダーズ・パートナーシップ(JCLP)という脱炭素社会の実現に積極的な行動をする日本独自の企業グループが2009年に発足し、RE100という、事業活動で消費するエネルギーを100%再生可能エネルギーにする目標を持つ国際的な動きに加盟する日本企業も88社となりました。日本も含めて世界で、制度や政策を見直し組み変えなければなりません」
     「私達一人ひとりが声を上げなきゃいけない」と湯川も強く述べました。最後に、中川氏の応援にお越し下さっていた小泉純一郎氏が「健康で頑張りましょう」と締めくくられて終演となりました。中川氏のレジメに綴られていた魂へ語る貴重なお話に参加者の方々は心を新たにされていました。中川氏、小泉氏、本当に有難うございました。

  • 202410/10Thu
    第21回

    弦哲也

    (作曲家)

     第21回目の木曜塾は、歌謡界で数々のヒット曲を生み出されている弦哲也氏をお迎え致しました。「物凄く声のいい方ですから、何とか歌って下さい、歌唱指導もして下さい、とお願いしています」という湯川の司会に会場内から拍手が沸き起こる中、弦哲也先生のご登壇となりました。
     一般公募された楽曲をプロの歌手が歌うNHKの番組「あなたのメロディー」で、湯川が審査員を務めた時に弦氏と出逢いました。弦氏は全国から寄せられた曲をギターで弾いて数曲に絞る選曲係でした。弦氏は3,000曲近くを作曲する日本を代表する作曲家であり、日本音楽著作権協会会長をお務めです。
     「14歳、総武本線の松岸駅から東京に出て、作曲家の大沢浄二先生の内弟子に入り、歌手として昭和40年17歳でプロデビューします。芸名は田村進二。デビュー曲の‘好き好き君が好き'は、8ビートで、全く乗ることができずに空振り。弦哲也に改名後も、空振り続きでした」と身の上話から穏やかにお話が始まりました。
     空振り続きのそんな時、歌手の北島三郎さんから、一緒に旅しないかと誘われ、2年半ほど日本全国を一緒に旅をします。そして旅も終わる頃に北島さんがこんな話をします。
     「弦、お前今でも歌手の夢を捨てきれないで居るのかい? 男のロマンだよな。わかるよ。でも嫁さん、子供を食わせていかなきゃいけないだろう? 音楽の道で生き抜いていくには、作曲っていう道もあるぜ。こんな俺でも歌作ってるんだよ。お前だってできないことはないぜ」と、その頃に作った歌を歌ってくれたそうです。
     『作曲! この道があったんだ』と、無性に歌が創りたくなりましたと弦氏。なかなか日の目を見られなかった頃、将棋棋士の内藤國雄9段に作った「おゆき」という曲で、幸運にもこの初めての作品がヒット賞を頂き、生後4ヶ月で両親に預けていた5歳になる息子を引き取ることが出来たそうです。
     「作曲家になって幸せだったなと思うことは、石原裕次郎と美空ひばりに歌を提供できたこと。裕次郎さんが病気療養中、とても体調がいい時に、「北の旅人」のレコーディングに立ち会い、その5ヶ月後に裕次郎さんは天国に旅立ちました。あの時の裕次郎さんの真っ黒に日焼けした笑顔と握手した手のぬくもりは今でも忘れることのない大切な宝物です」と、ギターの弾き語りで「北の旅人」を歌って下さいました。
     歌唱指導の曲は「天城越え」、「与作」。会場中の皆様が「ヘイヘイホー」「トントントン」と元気良く歌われていました。他にも「月の砂漠」、「おもいでの岬」、そして、「天城越え」の弾き語りを堪能させて頂きました。湯川から「土下座するくらい、本当に素晴らしかった。有難うございました。素敵だった~。もうこんな贅沢な時間はありません」と感激の言葉で終演となりました。参加者の方からも「今の時代の明るさではない、昭和の憂いや哀しみを帯びた音楽に今夜は酔いしれました」と感想を頂きました。弦先生、本当に、有難うございました。

  • 20249/12Thu
    第20回

    鳩山由紀夫

    (政治家)

     第20回目の木曜塾は、昨年2月にお迎えした元内閣総理大臣・小泉純一郎氏に続き、総理大臣経験者のお二人目となる鳩山由紀夫氏をゲストにお迎え致しました。湯川の人脈は広く、木曜塾にお迎えするゲストの方々をご覧頂いても、音楽業界のみならず様々な分野での交流があることにビックリ致します。エイトスターでは、とりわけ鳩山氏ご夫人とは30年以上も前にご縁を頂いていたのですが、ファーストレディとしては勿論、多くの方がご存知なのは、湯川も所属していたコーラスグループ“スワン・シスターズ”のメンバーとしてでした。
     「素敵でしょ、何より素敵でしょ…」壇上にすらりと立たれた鳩山氏を見つめながらの湯川の第一声に会場内の空気が一気に和らぎました。先ずは、歴史を回顧するお話からスタートしました。
     日本が朝鮮半島を統治していた時代に、朝鮮独立活動家たちが収監されていた西大門刑務所(※1)。
    2015年8月、その跡地を鳩山氏が訪れ、独立活動家たちを偲ぶモニュメントに献花をした後、鳩山氏がひざまずいて謝罪された際の心情を湯川の問いかけでお話されました。当時国内では、「謝罪外交」等と揶揄されましたが、心から詫びるという謝罪の本当の在り方とはどのようなことか日本国民は深慮(思索)しなければならないと視点を述べられました。
     『本当にUFOに乗ったことはあるの? 』と湯川が突然投げかけます。通称‘宇宙人'と呼ばれている鳩山氏ですが、客席にいらした夫人が代わりに「ありま~す」と朗らかに答えられ、会場を大いに湧かせました。夫人に応援されて政治家になろうと決心されたお話、コロナワクチン接種の危険性、拝米中毒への危惧と話題は次々と移り、湯川が最も懸念している地球温暖化や食糧危機について問いかけると、ブルーカーボン(※2)について言及され、海洋国として日本は政策的にやるべきであること。食糧危機に関しては、遺伝子組換食品に代表されるアメリカの戦略的な管理への危惧等から、ロシアとの友好を深める必要があると言及されました。
     鳩山氏が提供された資料「緊迫する国際情勢と日本の立ち位置」を元に「21年後には100年にもなる在日米軍基地駐留の異常性、ウクライナとロシア、中国と台湾の関係」についてのお話に皆様は真剣に耳を傾けていらっしゃいました。山積する課題をクリアーするには、政治家の誰が旗振りをするのですか?という問いかけに、「たとえ微力でも無力ではない。一人でも良い人を育てて真剣に考えていきましょう」と鳩山氏は締めくくられました。現実を踏まえた上で、ご自身のお考えをこれ程までに明言して下さったことに参加者の方々は感無量のご様子でした。鳩山氏、多岐にわたる示唆に富んだお話を有難うございました。

    ※1:西大門刑務所: 祖国独立のため日帝の侵略に立ち向かい闘い投獄され、残忍な拷問と弾圧を受け、殉国した先烈らの魂を称え、後世に自主独立精神を伝える歴史の生きた教育の場とすべく、1998年11月5日、跡地に「西大門刑務所歴史館」が開館される

    ※2:海中・海面付近にある生態系によって吸収・貯留された炭素のこと。陸地にある森林等が吸収・貯留した炭素のグリーンカーボンと区別するために、呼び分けされている

  • 20248/8Thu
    第19回

    江原啓之

    (作家/オペラ歌手)

     第19回目の木曜塾は、江原啓之氏をお迎え致しました。昨年の5月にご出演下さった時と同様に、情報解禁と共に非常に多くのお申し込みを頂戴し、席数の倍以上のキャンセル待ちを承りました。キャンセル待ちとしてお待ち頂いた大多数のお客様のご要望にお応えすることが出来なかったことを、改めて深くお詫び申し上げます。
     会の翌日発刊予定の江原氏の新刊『大切な人を失ったときに-この悲しみはどうしたら癒えるのでしょう-』 (小学館)を湯川が紹介した後、会場の「えはら」コールと共に、色鮮やかなパッチワーク仕立ての浴衣風の服を纏われた江原氏がご登壇されました。幾つかのワンポイント・トークの後、昨年ご出演頂いた際に予言されていた“お米がスーパーから消える”話題となりました。巷では、6月頃から米不足の話題は頻繁に取り上げられていましたが、その理由は3ヶ月経った今でも定かではありません。異常気象による出来高の問題なのか、備蓄米の供給の問題なのか、出所不明の噂で買占めが始まっていたからなのか、真相はつかめないまま人々が価格高騰だけに翻弄されている現状です。前回も江原氏は沼津でお米作りをされていらっしゃり、皆さんに自給自足の生活を強く勧められていました。
     続いて、心霊研究者としてのお話となりました。スピリチュアリズムはハイとローの二つに分かれること、霊能者の見極め方、自然霊・神道の定義、正しい参拝の在り方、そして自分自身の守護霊の役割についてなど、スピリチュアリズムの第一人者ならではのお話を伺う機会となりました。加えて、日本文化である言霊を知る人が少なくなっていることへの危惧や、日頃、音として口に出してしまうと間違いなく不幸せになる音霊についてお話し下さいました。私達が日々の生活を健やかに過ごしていく為に、幅広い分野での示唆に富んだお話を、分かり易い形でご提供下さる江原氏ですが、最後に、いくつかのお祓いの方法を伝授して下さいました。
     神道では『振魂(ふりたま)』と呼ばれるもので、自分自身が身に着けている中で、一番大事な(自分の魂と一体化している)物を用いて行う方法です。(エイトスター・ダイヤモンドをお持ちの方は、是非、エイトスターで)手の中に入れたその一番大事な物を丹田の位置に構え、肩の力を抜き、地に足を付け安定させ、背中を真っ直ぐにして、自然な呼吸で、「“自分の魂が手の中で綺麗に綺麗に綺麗に磨かれていく”という想念を持って行って下さい」と江原氏は優しく包むような声で先導されました。数分の振魂の後は、もう吐き出せませんと言うくらいに息を全て吐き出し、また自然に吸いリラックス。参加者の方々は、会場内が明るく澄んだ時空となる体験をされていました。この他にも音霊を使ったお祓い等、江原氏もお話されたいことがまだまだおありのご様子でしたが、「また今度お話します・・・」と名残惜しい気持ちを抑えながら締めくくられました。
     「本当に有難うございました。もし私がちゃんと来年も木曜塾をやれていたら来年も必ず来て下さい。それを楽しみに生きていきたいと思います」との湯川の熱烈ラブコールに、会場は大きな拍手と歓声が起こりました。江原氏、有難うございました。

  • 20247/11Thu
    第18回

    コシノジュンコ

    (デザイナー)

     第18回目の木曜塾は、コシノジュンコ氏をお迎え致しました。新人デザイナーの登竜門『装苑賞』を最年少の19歳で受賞され、東京を拠点に世界中で活躍されています。超有名なファッション・デザイナーであるコシノ氏の、少女のように純粋な人柄に触れることが出来る機会となりました。
    「今日のゲストは、なかなか話を聞ける相手ではありません。存在そのものが凄いです。実際に存在して、その人がそっくりそのままその人だっていうのを見る。もうそれだけでも価値があると思います」という湯川の紹介でコシノ氏が登壇されました。
    著書『原点から現点』からも窺えるコシノ氏の創作活動の源、生きる姿勢について「原点っていうのは自分自身の基本ですね。世の中に踏み出した時の第一歩。デッサンから始まって現在というのは、毎日原点から現点、明日も現点。明後日も現点。今から未来にも繋がる」というお話から始まりました。そして次にスクリーンには、コシノ氏の創造の原点である、高校時代に描いた絵画や装苑賞の受賞作をはじめ、現在に至る多彩で挑戦に満ちた活動の全貌を紹介する過去最大規模の展覧会である巡回展『原点から現点』の様子を放映されました。会場では衣装やデザイン画、写真パネル、映像演出などが紹介され、約200点の作品を通してコシノジュンコの創造の軌跡を紹介しています。
    「私自身のコンセプトは対極。人間は両手を持っているように常にバランスをとります。一日で言うなら、昼と夜。色で言うなら、赤と黒、白と黒。形で言うなら、丸と四角。丸は宇宙を常に動いているということで、地球ですよね。四角は人間が考えている合理ということ」と、具体的にお話をして下さいました。続いて、琳派をテーマとして、能のお囃子、すり足で行った京都でのファッションショーのお話です。このショーは、『京都・パリ姉妹都市60年イベント』としてパリでも披露され、壮麗なルネサンス様式の市庁舎の建物の中で、京都の伝統が表現されました。「日本の在り方を見せたい。それを衣装で見せたい」という、日本人としての誇りと共に「人間的な交流が入っていく。国境を取る仕事。自分の経験が自分の中で終わるのでは無く、社会的にもっと活かされなければいけない」と、コシノ氏の強い信念と志をお聞かせ下さいました。
     お母様も含め、姉妹三人全員がファッションの世界に生きる家族。人生を振り返りながら、「家族に恵まれている、というのが一番の財産かな」と笑顔で話され、来年には、お母様がモデルとなった映画が、大地真央さん主演で上映されるとのことです。
    「自分の人生、どの時代が一番好きかと言えば、開拓時代ですね。やっぱり20代ってまっさらで何も無かった。だから何をやっても珍しかった。ブティックって名前が日本で最初なんてありえないでしょ」最後には「余計な話いっぱいしたから忘れてください」と、チャーミングな笑顔で締めくくられました。コシノジュンコ氏、楽しく貴重なお話と映像を有難うございました。

  • 20246/13Thu
    第17回

    イルカ

    (歌手/絵本作家)

     第17回目の木曜塾は、来年で楽曲の誕生から半世紀を迎える「なごり雪」で知られるイルカ氏をお迎え致しました。湯川の「人って、人のこと知らないのよね」との切り出しから始まり、「先代の田村社長が本当に大好きな方でした」とご紹介し、イルカ氏を檀上へお招き致しました。
     拍手で迎えられたイルカ氏に、ここでビッグサブライ ズ!! 中学の時からイルカ氏のファンクラブに入っているという筋金入りの信奉者、江原啓之氏が最前列から出迎えられ、会場は大盛り上がりとなりました。
     イルカ氏と湯川、先代の田村富保との出会いは、二人の著書がきっかけでした。本屋で目についた『地球はダイヤモンド(田村著)』がダイヤモンドのように光って見え、「なんて素敵なタイトルだろう」と思って隣を見たら湯川の『幸福(しあわせ)へのバラダイム』があって、(二人が夫婦とは知らず)両方買ったお話には、お 客様も驚きを隠せませんでした。イルカ氏によると、その頃から不思議なことが起こり始め、ご自身で楽曲『ケサランパサラン』を作ったお話や、青年だった頃の江原氏との出会い、江原夫人とのご縁、そして、「一生ついていこう」と決めた湯川との出会い等々、次々と偶然では考えられないような深いお話が続きました。その後、ドイツで20年間ルドルフ・シュタイナ一の勉強をされていた川手鷹彦先生のお話へと繋がります。母音の持つエネルギーや、言語造形術という先生の素晴らしい講座等を通じて学んだというお話に、古希を迎えても変わらぬ声の魅力の一端を伺い知ることが出来ました。実は、イルカ氏のご尊父は戦後とても人気のあったバンドのサックス奏者で、95歳になられていたご尊父は、昨年のイルカ氏のステージで、リハーサル時には重くて到底持てないと言っていたサックスを本番で見事に吹かれたというお話に、「イルカさんも95までは歌える」と湯川から熱いエールが送られ、会場の共感を誘いました。
     そして、いよいよ亡き田村との絆のお話に。エイトスター・ダイヤモンドのネックレスやブレスレットを、体調不良のご主人にプレゼントしたことや、田村のタイピンに収まっていたエイトスターを、イルカ氏の為に指輪にリフォームしたというお話をお聞かせ下さいました。
     締めくくりに、33年間続けている日曜日の朝のラジオ番組の中で伝えている”デザート世代”という言葉をご紹介下さいました。「人生をフルコースの料理と考えれば、最後に良いものがやってくる。自分達が少年少女の頃にやりたかったことを是非本気でやってみて!」と、ご自身が還暦を過ぎたからこそ言えるという、力強いアドバイスでした。
     最後には、ご自身のエイトスター・ダイヤモンドの指輪から放たれた、虹色の輝きから着想を得て作曲された 『ダイヤモンド』を特別にご披露下さり、湯川の目には大粒の涙が。そして、「まだ5分残ってるから・・・」と、湯川からの熱烈なオファーにお応え下さる形で、世代を超えて 歌い継がれている名曲「なごり雪」をイルカ氏のアテンドと共に全員で合唱し終演となりました。イルカ氏、本当に有難うございました。

  • 20245/9Thu
    第16回

    松元ヒロ

    (スタンダップ・コメディアン)

     第16回目の木曜塾は二回目のご出演となる松元ヒロ氏をお迎えしました。5月3日の憲法記念日に因んで、今回は、ヒロ氏の有名な持ちネタである「憲法くん」をお聴きしたい、という湯川の希望でご登壇頂きました。
     湯川の兄が出兵前に口ずさんでいたという曲「スリーピー・ラグーン(午後の入り江)」は、真珠湾攻撃の時には全米で人気音楽番付(ヒットチャート)では1位になっていたそうです。その曲と伴に、戦争で亡くなった兄との想い出が湯川の心には深く刻まれています。日本は敗戦し、後に日本国憲法が作られ、恒久の平和を念願しました。現在、ニュースで流れる世界情勢を見ても、また日本でさえ、取り巻く諸国の情勢や海域などの課題は楽観視で きないことばかりです、と二人の話は続き、ヒロ氏の有名な持ちネタである「憲法くん」へと繋がって行きました。
     「憲法くん」は、身体全体が「憲法くん」となったヒロ氏の自己(憲法くん)紹介で始まり、日本国憲法前文全てを訴えかけて会場を感動の渦に巻き込みます。
    「日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民と協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらはこれに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の内に生存する権利を有することを確認する。われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけて、全力をあげて崇高な理想と目的を達成することを誓う。」-日本国憲法前文
     前文を熱く語り終えた後、憲法くん(ヒロ氏)は次のような言葉で締めくくりました。
    「僕は今初心に戻りました。皆さんが頑張れと言われればまだまだ頑張ります。でもある一部の人々は私の事を自虐的だとかプライドがない、もっと誇りを持てとか仰います。でも私はこの77年間、たった一度も戦争という名前で他の国の人々を殺したことがない!そのことを誇りに思っています。しかしこの私をどうするかは皆さんが決めることです。私は皆さんの私なのですから。では私を今日の皆さんに託しましたよ。」とメッセージを託して語りを終わられました。
     下向き加減に目頭を熱くされていらした方も多く、改めて憲法くんを通して平和の意味を感じられていたのかも知れません。松元ヒロ氏、有難うございました。

  • 20244/11Thu
    第15回

    石井幹子

    (照明デザイナー)

     第15回木曜塾は、都市照明からライトオブジェや光のパフォーマンスまで幅広い光の領域を開拓する照明デザイナーとして、国内外でご活躍されている石井幹子氏をお迎えしました。東京藝術大学美術学部卒業後、見識を深めるために、1965年に日本を飛び出しフィンランドに向かったというお話は、その時代を考えると、強い意志の顕れだと想像します。
     戦後シベリアの収容所でお父様が亡くなり、お母様方の祖父母のもとで石井氏は育ちました。時代はまだ「女の幸せは結婚」でした。大学在学中もクラス36人中女性は6人。「どうせ君たちは卒業しても働かないから国費の無駄遣い」と教授から言われた時代です。
     卒業後、照明器具のデザインを手がけた時、照明に光が灯った時の光の素晴らしさに感動し、照明デザインへの意欲が生まれ、揺るぎ無い志となります。当時世界を席捲していたスカンジナビアデザインの本に掲載されていた女性デザイナーのリサ・ヨハンソン・パッペ氏に学びたいと、手紙と自分の作品集を送り、結果、フィンランドでアシスタントデザイナーとなります。横浜からソ連船でウラジオストック、そこから汽車、途中飛行機に乗り、モスクワから夜行列車でヘルシンキに。そんな時代でした。その後、ドイツの会社にスカウトされ、そこで建築照明での実績を積みます。帰国して石井幹子デザイン事務所設立しますが、当時の日本は、機能的な明るさをとる照明が一般的で、空間を変えてしまうような照明デザインが認められるか未知でした。しかし、日本の錚々たる建築家たちに石井氏の照明デザインが認められ、大阪万博では5つのプロジェクトで寝る間も惜しむ忙しさでした。
     会場では作品を映像に映し出しながらご紹介くださいました。日本での代表作品は誰もが知る東京タワーやレインボーブリッジです。日本ではライトアップを広めるために8年間手弁当で色んな街を照明して歩いたそうです。最初に街の景観照明が実現したのは横浜市のライトアップ・フェスティバル。普段の夜の税関の建物の画像の後、照明した税関の画像が映されました。「光の効果って凄いんですよ。昼間は、太陽光線が満遍なくどれも照らしだしますけど、夜は、この街らしさを演出するものだけに光を当てていく。すると、その街の歴史が見えてくるし、またある意味では未来も見えてくると思うんですね。」と秘めた光への熱い想いをお話されました。手がけられた作品は数えきれず、世界中から100を超える賞を受賞されていらっしゃいます。
     最後の映像は『ジャポニスム2018 エッフェル塔日本の光を纏う』です。日仏友好1 6 0 年を記念して、2018年7月から2019年2月にわたり、大型日本文化紹介事業「ジャポニスム2018:響きあう魂」をフランスで開催した時の作品です。照明家として海外で活躍されているお嬢様の石井リーサ明理氏と一緒にプロデュースされたもの。金色に輝くエッフェル塔に、尾形光琳の杜若を映した動画は圧巻でした!照明の世界で金色を描く事は究極の技だそうです。
     石井幹子氏、素敵な作品とお話を有難うございました。

  • 20243/14Thu
    第14回

    加藤登紀子

    (歌手/シンガーソングライター/女優)

     第14回目となる木曜塾は、歌手に留まらず幅広くご活躍されている加藤登紀子氏をお迎えしました。「昔は、シャンソン好きじゃなくあまり聞いていなかったんです」と、笑いを誘う湯川の話で始まりました。
     「お互いに戦争体験をしていても、歳が近いと思われてはお登紀さんがお気の毒です。終戦時には私は小学4年生(9歳)、お登紀さんは2歳半で満州(ハルピン)から引き揚げて来られました。」と、加藤氏の若さを強調して会場内にお呼びしました。
     ステージに上がられた加藤さんは早々に、終戦時に母親から『アメリカが上陸してきて辱めを受けるようなことがあったらあなたも私と同じように死ぬのよ』と自害の仕方を教えられた経験がある湯川に、「そんな強烈な体験を持つ人がアメリカの音楽を日本に紹介する人として第一線で活躍するんですよね…」と話され会場を沸かせました。そして、「シャンソンがあまり好きではなかった」という湯川の発言については、「戦後、シャンソンに流れていく傾向の人とアメリカの(音楽)方に流れていく傾向の人があって、どちらかというと陰と陽だった」と話され、戦争に勝ったアメリカとヒトラーに負けたフランスを対比させながら、しっかりプライドを守って抵抗を続けたフランスについて強調されていました。戦争への示唆に富んだ話を背景に、世界のスターになるためにアメリカに進出したフランス人のエディット・ピアフとドイツ人のマレーネ・ディートリヒとの関係、加藤氏の大先生でもある石井好子先生の意外なエピソード等々、お話は次から次へと飛び出しました。
     実は、加藤氏の獄中結婚のお話は有名ですが、湯川がお登紀さんに憧れるきっかけとなったのは加藤氏の著書『絆(獄中往復書簡、141通) 』でした。「こんなロマンティックな恋をした人って‘すげーな’」と、湯川には衝撃だったようです。「(獄中結婚された藤本さんって)いい男だったんでしょう?」との問いに、すかさず「とっても!」と照れながら応えられる加藤氏がとても魅力的でした。夫である藤本敏夫氏は学生運動の指導者でした。続いて加藤氏の古い著書に書かれた「いい男とうまく付き合う方法」について触れて、「いい男は他の人にも好かれる。ここが問題なのよ」と、パートナーとの関係を色々とお話し下さり会場は盛り上がりました。舞台上にお一人となった加藤氏は更にお話を続けられ、賛成派や反対派等「国が作り出すあらゆる分断に向かって断じて許さない、人々を分断するあらゆることに私は我慢しない」という世の中の情勢への強い意思を語られ、会場のお客様を釘づけにされていました。一途に歩まれて来られた人生は、お話を伺ってみないと知る由も無い道程でした。
     最後にギターを手にした加藤氏からはサプライズの歌「悲しき天使」と「百万本のバラ」が贈られました。ステラの会場で間近にお聴きする加藤登紀子氏の歌。なんて贅沢なひと時だったでしょう。有難うございました。

  • 20242/8Thu
    第13回

    東儀秀樹 

    (雅楽師/音楽家)

     第13回目となる木曜塾は、雅楽師・作曲家であられる東儀秀樹氏です。ステージにはスタンドマイク2本、エレキギター2本、ステージ横にピアノが並び、これから始まる演奏に皆が胸を躍らせる中、湯川の挨拶から講演会が始まりました。
     「東儀氏と初めてお目にかかったのは32年前だったと思います。当時はまだ無名の宮内庁楽部に在籍していた楽師でした。中国から伝わった雅楽というものを、1,000年以上に渡り継承し続けている家系にお産まれになられました。東儀さんの演奏は研ぎ澄まされたような雅楽の歴史を感じますが、それ以上に奥行きが広くて本当にあたたかいです。」早く対談をしたい湯川が東儀氏を壇上にお招きすると、片手に雅楽の楽器を持った東儀氏が颯爽と登壇されました。
     東儀氏は、「僕は皇居に勤めていたとか、1,300年続く雅楽の家系だとか、(周囲の人達に)皆さんの中に先入観が入ってしまっていて、ものすごく真面目で堅苦しい奴だと思われている。」湯川は間髪入れずに「だってそういう顔してるもん!」と返すと、「顔で判断しないでください!!」と、2人の漫才のような掛け合いに会場は笑い声に包まれました。「大抵の人は僕のことをそう思っています。面白いことを何も言わないというか、石橋を叩いて渡るタイプだと。僕は石橋があったらそれを飛び越えていくタイプです。でも、あまりそうは思ってもらえない。」多数のお客様が頷く様子を見た東儀氏は、「その誤解を解きたい!今日は皆さんのその思いを払拭します!」と力強く宣言し会場から拍手が起こりました。
     湯川が東儀氏のお父様と一緒にインドへ行った思い出話を伝えると、「父は普通の商社マンで、東儀家は母方の家系です。母が父に嫁いだ瞬間に雅楽をやる家系ではなくなっています。僕の幼少期に雅楽をやれと言われたこともないし、自分でも雅楽師になろうとは微塵も思っていなかった。父が商社マンなので僕は外国で育っていたし、雅楽の環境がより遠かった。ですが小学校の時から、『うちは雅楽の家系』ということは聞かされていた。」雅楽の環境から離れていても音楽が好きだった東儀氏は、「幼稚園の頃からビートルズが好きで、いつもビートルズのステージ写真を持って幼稚園に行っていました。父はクラシックが好きで、母はミュージカルや映画音楽が好きで、童謡を歌って聴かせてくれて、幅広い音楽を楽しみながら育ちました。小学校の後半からギターを弾き始めて、中学校の時にバンドをやるようになって、高校の時もバンド活動を続けていたので、将来は音楽の方面に行きたいと考えていました。高校2年の時に母から『音楽をしたいなら東儀家なのだから雅楽をやってみたら?』と言われて、ロックをやろうとしている高校生に雅楽を勧められたら、普通は『ふざけんじゃねぇ!』となるでしょ?でも海外に住んでいると日本人ということが浮き彫りになります。周りの友達が日本を誤解していると、それに対して逐一訂正をして、今の本当の日本を伝えたいという大使館員になったような気持ちになります。そこを経て大きくなったので、母に雅楽を勧められた時も、日本人が日本の文化を背負うってものすごく価値のあることだなと思いました。」雅楽を始めたきっかけは家系よりもご自身の生い立ちに起因しており、東儀氏の「好きなことはやり続ければいい」という言葉に、会場のお客様も深く頷き、熱意の籠った言葉一つ一つに深く頷きながら聞き入っていらっしゃいました。
     東儀氏のご子息、典親氏との共演ステージは圧巻の一言で、雅楽の楽器やギターやピアノをセッションされ、親子の息の合った演奏は然る事ながら、典親氏の15歳とは思えない立ち振舞いに会場は大いに沸きました。お二人の心躍る演奏に感謝申し上げます。東儀秀樹氏、有難うございました。