第28回目の木曜塾は、1982年デビューして以来、数々のヒット曲を出されている稲垣潤一氏をお迎え致しました。対談は、43年前に湯川が作詞したデビュー曲「雨のリグレット」の回想に始まり、中々訊き難いというご家族のお話へと続きました。いつまでも変わらないと言う評判の声ですが、過去の楽曲の音と比べると随分と変わってきていること、また、稲垣氏ご自身は余り自分の声が好きではなかったという意外なお話を披露下さいました。
「今日はですね、どんな話をしたらいいのかなって、ずいぶん悩んでこの会場に来たんですけども」と謙遜された稲垣氏ですが、ご自身の生い立ちや、曲の成り立ち等のお話を、人柄が感じられる朴訥な語り口でお話し下さいました。デビュー前、バンドメンバーと住んでいた4畳半のアパートの部屋代が払えずに、電気を消して居留守を装い、2階の部屋の出入りは電柱を登っていたというエピソードには会場が大いに沸きました。予想できなかった稲垣氏の数々のこぼれ話に、参加者の方々も感激の時間となりました。
その後は歌とトークで魅了して下さった夢のような時間でした。一曲目は、東日本大震災発生の年に発表された曲「アンリミテッド」。中学の音楽の教科書に掲載する合唱曲でしたが、この曲を広めたいという制作者たちの強い意向で、稲垣氏に白羽の矢が立ち歌うことになったそうです。
ドラマーとしては、中学三年生の時に本物のドラムセットで生まれて初めてライブを行ったのが中学の図書室でした。校長が大反対したにも拘らず、担任が助け舟を出してくれたお陰でした。情熱が伝われば、理解者は必ずいるものです。
続いて「雨の朝と風の夜に」、レコーディングに一番てこずったという「夏のクラクション」、シングルとして一番セールスした「クリスマスキャロルの頃には」を歌って下さいました。「無口だから、お話、大丈夫かしら…」という湯川の心配を他所に、歌の合間にはモータースポーツへの造詣の深さを熱く語られ、車のCMに使われた曲「僕ならばここにいる」を歌われました。終演時間が間近になった頃、自ら延長を申し出られ、最後に「哀しみのディスタンス」を歌われました。陸前高田で開催された「NHKのど自慢」に初めて出演された折に歌われた曲でした。
「稲垣さんの声、聴いてると涙出てくる。何なんだろう。なんか永遠の少年なのかな…」と言う湯川の感激の言葉はお客様共通の感動を代弁していました。
そして稲垣氏を舞台から見送る時に、突然、稲垣氏の指に輝くエイトスター・ダイヤモンドの話題に変わると、「この指輪をしてから調子が素晴らしい。はい、本当です。正直に」との感想を稲垣氏より頂戴致しました。
稲垣氏、素晴らしい歌声とお話を有難うございました。
第27回目の木曜塾は、昨年6月シャンソン歌手デビューをされた鬼無里(きなさ)まり氏をお迎え致しました。
「鬼無里まり」は、元女優で花創作家(フラワー・アクティビスト)として活躍する志穂美悦子氏のもう一つの顔です。
湯川は、提唱するエターナルソング(大人の心に寄り添い、永遠に歌い継がれ、時代を生き抜く歌)普及のために、歌詞やメロディーを公募してコンテストを行い、授賞作品の披露コンサートを開催しました。「昨年のコンサートで、新人として一曲歌って頂いたのが鬼無里まり氏の歌手デビューでした」との湯川の紹介で鬼無里氏を壇上にお迎えしました。
花創作家として著名な志穂美氏。当日会場の舞台脇の空間を飾った目を見張る生け込みは、前日に志穂美氏が生けられたものです。生け込みの器には大木が使われ、天井まで届く高さ、幅2mを超える見事な作品でした。開場と同時に入室された参加者の方々は感嘆の声と共に、すぐさま写真撮影に専念されていらっしゃいました。
湯川と鬼無里氏は、「えっちゃん、お母さん」と呼び合う仲なのですが、「なぜ結婚したの?」という湯川の唐突な質問に、「私、アクションやってきたじゃないですか。怖いものが好きなのか、危険なものとか、命をかけそうなものがちょっと好きという傾向はあるのかな」と笑顔で答えられました。そして、「私、本当にね、結婚生活いろいろ大変だったんです。喧嘩しても、一度も手も足も出したことないんです。だって、向こうを商品だと思っているから、回し蹴りとか全部封印したの。1回だけ追い詰められた時に、この正拳、身を守るために1回あるぐらい。なのに、YouTubeで私がすっごい強くて、それで、彼は筋トレやり始めたとか…、全然違うのよ!」と明るくお話されました。対談後は歌とトークのワンマンショーです。
「23歳の頃、金子由香利さんの大人のシャンソンがとても好きで、‘銀巴里’に聴きに行ってはレコードを買って、家で聴いていました。なぜシャンソンを歌うようになったのかは、やっぱり日常に音楽があったから。それは剛さんのおかげで…」。そして、長野県の鬼無里村から頂いた歌手名について語られました。
「鬼が無い里、これこそ平和の象徴のような感じがして、でも強さと美しさがあるなと思って。どの時代も鬼はいるんです。鬼って悪いものだけじゃなく、鬼子母神とか、すごいことをやる象徴です。そういう意味で三文字に惹かれました。昔女優をやっていたから歌うといった特権を使うという考えは、私の中には全くないんです。別人格として新しいことを始めたいし、そういう目で見てもらいたいし、本当に新人からスタートしたかったから、三文字がドーンと降りて来たんです。シャンソンが本当に好きで、この年になったら、いっぱい付いた傷が歌えるわ…とか思って。シャンソン、私、本当に心から愛しています。今思えば、全てを力に変えたいと思うので、シャンソンが教えてくれた、そして私の傷を癒してくれたものを今日は聞いて頂けたらと思います」と話されて、心を揺さぶる6曲を熱唱下さいました。会場内は魅了され、参加者の方々の涙を誘っていました。
伴奏を担って下さったのは超一流のジャズピアニスト秋田慎治氏です。最後に「何かいい曲、弾いて頂けますか?いきなりですけど…」との湯川のお願いに応えて、奏でて下さったのが「My Funny Valentine」。毎回、湯川ならではの木曜塾ですが、本当に贅沢なひと時でした。
鬼無里まり氏、秋田慎治氏、有難うございました。
第26回目の木曜塾は、音楽評論家、ディスクジョッキー、音楽プロデューサー、作曲家、音楽家として活躍をされている萩原健太氏をお迎え致しました。
「バリバリの音楽評論家です!」との湯川の紹介で萩原氏が登壇されました。今から25年位前に、テレビ番組『三宅裕司のいかすバンド天国』での審査員として二人は出会いました。萩原氏の評論から感じられる優しさに溢れる人となりについて、また、突然に体調を崩した湯川に代わりFM横浜の番組「ミュージック・ランブル」の代役を務めて下さった話等、湯川にとって萩原氏の存在の大切さが伝わってくる紹介の後に対談はスタートしました。
湯川が長時間の特別番組を担当する折には、必ず相手方としてお願いしてきたという萩原氏ですが、木曜塾に登壇頂くことになった"お目当て"は、サザンオールスターズ(以後、サザンの表記)の桑田佳祐についてお話頂くことでした。サザンがアマチュアの頃、萩原氏はリード・ギタリストとしてバンドに在籍していたことがあり、当時から桑田佳祐の音楽的な才能・センスに惚れ込んでいらっしゃいました。アーティスト「桑田佳祐」に思いを馳せる中、後にご自身も音楽業界に身を置くこととなり、1998年にはサザンを題材とした本『サザンオールスターズ』を出版することになります。今回のご登壇を二つ返事で承諾頂いた萩原氏からは、貴重なオフレコ話を散りばめた、他では聞くことの出来ない桑田佳祐についてのエピソードを次から次へと紹介して下さいました。一部をご紹介致します。
「6 0 年代末頃から7 0年の初頭、ロックンロールに日本語は乗らない、ヒット曲は世に出ないと言われていた時代でしたが、そのジンクスを打ち破ったのが桑田佳祐でした。アメリカンロックやブリティッシュロックの要素を取り込み、さらにコミックバンド的な要素も加え、日本の歌謡曲やポップスの情緒をも取り入れたバンドとして、サザンの楽曲には色々な切り口があったのです。歌唱法についても、日本語と英語をうまく混ぜ合わせ、日本語を英語っぽく発音したりしていました。デビュー曲の"勝手にシンドバッド"は、なに…!? と戸惑いながらも新しい時代の幕開けを感じた人が多かったように思います。また、その異端ぶりは、自称"自分たちは目立ちたがり屋の芸人です"と語るほどでした」。デビュー以来、ヒット曲を生み出し続ける桑田佳祐が楽曲に意図したものは何だったのか、萩原氏ならではの視点で紐解かれお話下さいました。桑田佳祐のマニアックなファンでない限り、耳にする機会の無い極めて珍しい楽曲についても、その掘れども尽きぬ魅力について、作詞家としての湯川なりの思いを次のように表しました。
「私は、一言一言をどう届ければよいのかを、言葉に苦しみながらずっと作詞をしてきました。桑田さんのあの、なんだかめちゃくちゃわかんない詩に人がついてきたって、何なのだろうって改めて考えて、これも含めて桑田佳祐さんって人の魅力なのだと思う」。興味深いお話の数々を、萩原健太氏、有難うございました。
今年、NHK放送100年を祝って、サザンが関連番組のテーマソング「神様からの贈り物」を発表しました。木曜塾の数日後、NHKが桑田佳祐をゲストに迎えてサザンの歴史を辿る特別番組を放映しました。サザンは1978年のデビュー以来、約半世紀に亘り音楽シーンをリードしてきたのです。
第25回目の木曜塾は、多才さが武器となり65年に渡り活動されているタレントのなべおさみ氏をお迎え致しました。ご自身で作詞をされたという曲を朗々と歌い上げながらのご登場に参加者の方々もビックリでしたが、気持ちを一にされていらっしゃいました。
付き人時代の話から芸名の由来に始まり、地獄を見たオフレコの話等を澱みなく語られる様は、85歳とは思えない活力に満ちていらっしゃいました。湯川曰く、まるで講談のよう、でした。今年の1月新しいプロダクションに移られ、3月24日夜9時からBS12で放送予定の「鶴瓶ちゃんとサワコちゃん ~昭和の大先輩とおかしな2人~」に出演する話、自作の曲をレコーディングして売り出す計画等々、今までより更に活動の場を広げられるとのことです。
なべ氏の手相には、薬指の下に1本スッと入っている線があります。実は、湯川自身もエイトスターを身に着けるようになってその線が入ったのですが、『自らの運命を自ら切り開くすごいいい手相』と、エネルギッシュに活動されるなべ氏の知られざる秘密を紹介することとなりました。人の寿命が分かり、健康の寿命を延ばすパワーをお持ちで、有名アスリートを始め、多くの方を健康に導いたそうです。そのパワーの恩恵を受けた方も会場にお見えでした。奥様が34歳で経験した命の危機を救い、76歳まで生き永らえたお話は、奥様への深く強い愛情を感じるお話でした。奥様の不在を「なべさん辛かったろうなと思って」という湯川の言葉に、「ああ、大丈夫ですよ。あいつと一緒に生きてますから」と応えられました。
お話の途中、なべ氏は突然に「東京以外から来た人、手を上げて」という誘い言葉で視線を一身に集められました。遠くは鹿児島、神戸、秋田、平塚、なんとアイスランドからもいらっしゃっていました。その方々から始まり、最後は欲しい方を募って、なんと、「僕が日本一美味いと感じている食パンです」と横浜の馬車道グラヌーズの食パンを配られたのです。とても粋なサプライズに会場は一層盛り上がりの一時となりました。最後のお話は、一気にご自身の思いを語られました。
「芸能の仕事以外では生きようと思ってません。雑誌の『月刊Hanada』(げっかんはなだ)に毎月一話、三年間ぐらいずっと映画に関して書き並べてます。10歳の時、学校行事で「海の男」という映画を見せられ、この時、なんて映画館っていうのは素敵なんだって思い、映画館通いが始まります。鉄屑屋に金モノを運んだり、朝鮮戦争特需で機械の整備をして稼いだお金で毎日のように銀座へ飛んで行ってロードショーを見る少年になっていました。その時買ったパンフレットが1万枚近くあります。ローマの休日から何から全部持ってます。映画のあのスクリーンの中で生きたい。あん中で生きなきゃ。皆こんな喜んでる。もうどんなことがあろうが、そこで生きよう。こう決めました。で、僕は正直、これから沢山のテレビやラジオに出たいと思っています。僕は86歳になりますが、元気ですよって姿を見せることによって、同じ時代を生きた仲間たちに、自分も頑張んなきゃ、と言わせて生きていこうかなと思っています」と締めくくられました。
「これから10年、なべおさみを見守って、一生懸命拍手をして、一生懸命ファンレター出して、番組によっては電話をかけて。是非、押し活をやって頂きたいと思います」と湯川からも熱いエールが送られました。なべおさみ氏、有難うございました。
第24回目の木曜塾は、年明けの会として恒例となりました大德寺昭輝氏をゲストにお迎え致しました。初頭に、大德寺氏の呼びかけで、会場の皆様と共に先代の田村富保社長に心からの黙想を捧げました。「私は本当に田村さんには沢山の愛を頂いて、今日私がこうして皆様にお話をしています。私は感謝の気持ちでいっぱいです。まさかこんなに早く天国に行かれるなんて…。人が生きるって、どういうことなんだろう…」と、考えることが多くなったと心境を言葉にされました。大德寺氏のお話を一部、そのままご紹介させて頂きます。
「そんな時、誕生日の‘ たん’ という字が、偽り、嘘という意味と知り、偽りとか嘘という日に我々は生まれている、ということは、偽りという言葉は偽りではなく、我々が学んでいる価値観で物を見ていく世界ということだと思いました。命日は命の日ですね。命って不可思議です。どこに命があるのでしょうか?頭にあるのか、足にあるのか、お腹にあるのか、わかりません。どんなに有名な先生も、ノーベル賞を貰った先生も、命、魂の在る場所を教えることができません。でも、確かに私たちには魂があります。この魂を肥やすための方法は一つしかありません。教えを学ぶこと、価値観を学ぶこと。修行すること。素晴らしい師匠について一生懸命学び、魂を学んで、心を学んで、そこで初めてその価値が分かるのです。
今年は巳年。脱皮、再生、新しいことが始まります。陰の気の年。ですが、陰の気は別に悪い意味ではなくて、火と水です。だから神、今年は神の年です。この年に何かをなさった方がいい。自分が動く。出来ることをする。お店を新しくするとか、何かを新しくする。実は今年の巳の年は、志なのです。価値観を持って志を開くことによって、運命が変わってくる。ただ、様々な困難を生じます。難行苦行の年です。この地上に生まれるということは、この地上での修行。だから、いろんな方が修行をして、やっと命の世界に帰って行ったのだと思います。皆さんも、その世界にいつかは行くのだから、慌てることはありません。今を楽しんで下さい。この楽しむということがすごく大切なのです。
コロナの頃に、湯河原で有名なゴミ屋敷、ボロ屋敷を購入して研修所を作りました。皆さんでお掃除をして、綺麗にして、今、そこが本当にユートピアになりました。石のお社に素戔嗚尊(すさのおのみこと)とその八柱(はちはしら)の神様、稲田姫命(いなだひめのみこと)をお祀りして、天台烏薬(うやく)、石上神宮(いそのかみじんぐう)に頂いた‘ヒミコ’という椿とさざれ石、橘、そして、高橋秀齊先生に名付けて頂いた‘天恩池’と、お庭も素晴らしくなりました。今度、奈良にも天恩郷(てんおんきょう)が出来ます。私がやりたいことは「大和塾」。大和心を学ぶ学校を作ろうと思っています」。
最後に、「田村さんは追求して追求して、追求していろんな方について魂で感じたことをエイトスター・ダイヤモンドに注ぎ込まれました。エイトスターの真の光は魂なのです。このエイトスターの魂を消して欲しくないから、私を木曜塾のお話に呼んで下さっているのではないかと、私は悟らせて頂いております」とご自身のエイトスター・ダイヤモンドへの思いを述べられました。
「年明けの木曜塾に参加されて、生の話を聞いて、脳を活性化して、皆さん1年間元気で生きていきましょう」と締めくくられました。年の始めに心構えとなる貴重なお話を大德寺氏、有難うございました。
第23回目の木曜塾は、今年2回目のご出演となる雅楽師・音楽家の東儀秀樹氏と今年18歳になられたご長男の典親氏をお迎え致しました。東儀氏は、日本の芸術文化の振興に多大な貢献をされたことで、昨年12月10日に発表された令和6年度文化庁長官特別表彰を受賞されました。
「今日は12月ということで、クリスマス特別仕様のプログラムです。贅沢ですよ、本当に!」という湯川の司会でお二人をステージにお招きし、東儀氏から記憶力抜群のお墨付きの典親(愛称;ちっち)氏を交え、東儀氏と湯川の出会い等、想い出話で対談が始まりました。
湯川の新刊書『私に起きた奇跡』の中でもふれていますが、東儀氏も同行されたサイババのアシュラムで開催される音楽祭に参加するために訪ねたインドの話、そして、ベストセラーにもなった東儀氏の著書に書かれた「東儀家流の子育て」(※1)の話に及びました。その東儀家流で育った張本人であり、生き証人でもあるご長男が才能を開花されている姿を目の当たりにして、会場のお客様方は納得のご様子でした。
東儀氏と典親氏によるクリスマスプレゼントに相応しい一夜限りのライブは、湯川の紹介通り特別仕様プログラムとなりました。台本無し、会場内の雰囲気をお二人が感じ取りながら、その場その時に応じた感覚で進行して行くという、会場と一体となった演奏&トークが繰り広げられ、お客様の歓喜・感動を誘いました。
お馴染みの日本のヒット曲ハナミズキから始まり、クリスマスソング、そして、ハードロックの曲や典親氏のオリジナル曲(※2)と続き、東儀氏が小さい頃から慣れ親しんだビートルズナンバーへと続きました。客層に合わせた古~い曲と解説される東儀氏に、湯川からは「悪かったわね」の合い(愛)の手が入りました。
ライブの中で思いがけない出来事がありました。東儀氏が正式に業界デビューされるずっと以前に、当時エイトスターに在籍していた社員が作詩をして、東儀氏が曲を付けたという「Very Merry Christmas to you」を披露下さったのです。突然のことでしたが、その素晴らしい曲にお客様は陶然とした面持ちで耳を傾けていらっしゃいました。ことの次第を知らず「良い歌ね~」と感じ入っていた湯川に、東儀氏から「湯川さん、これ何とか売り出して!」とラブコール。これはスタッフ仲間でさえ知らなかった話ですが、東儀氏と作詞が得意という社員との何気ないやり取りから生まれた曲のようです。エイトスター・ダイヤモンドの波動が時空を満たすプレ・クリスマスは感動の一夜となりました。
湯川ならではのゲストをお迎えして開催する「木曜塾」。その根源はエイトスター・ダイヤモンドの輝きです。その輝きを是非一度ショールームでご覧になって下さいというメッセージで会を締めくくりました。東儀秀樹氏、典親氏、有難うございました。
※1:『東儀家の子育て 才能があふれ出す35の理由』講談社
※2:典親氏はCicci(チッチ)と言うアルバムで、20曲以上を配信サービスで提供中
第22回目の木曜塾は、内閣官房長官(第66 代)、自由民主党幹事長(第39代)、自由民主党政調会長(第47代)等を歴任された中川秀直氏をお迎え致しました。
「今日聞いて頂くお話は、本当に貴重だと思います。そして私が大好きな人でもあります」との湯川の紹介で、中川氏がご登壇されました。中川氏は、「私はかつて科学技術庁長官という原発推進の責任者で、原子力委員長でもありました。2 0 1 2 年に政界を引退して今、湯川さんも幹事で頑張って下さっている原発ゼロ・自然エネルギー推進連盟の副会長です」と初頭のご挨拶をされました。そして、「今まで原発必要論者は、日本の原発は絶対安全、コストは他のエネルギーと比べて一番安い、CO2を出さない永遠のクリーンエネルギーだと言ってきた。これが、全部ウソだとわかった」と小泉純一郎元総理大臣がお話されている動画を上映して下さいました。
資源のない日本、原子力の平和利用が必要。しかも安全で安いなら、核燃料サイクルも必要と信じていた小泉氏も中川氏も、2011年の福島の事故で考えを改めたそうです。壊れるはずのないものが壊れた。それでも尚、安全神話は続き、壊れたのは想定外として、誰も責任をとっていないのが現状だったようです。
「かつて自分のやった原発推進の施策は、全く間違いだったと思い知りました。心から反省して、責任が重かった分、その償いの意味でも原発ゼロに、あらゆる努力をしようと決意したのであります」と中川氏は声を大に明言されました。そして、次のような決意をお話されました。
「原発は温暖化対策として有効ではなく、事故原発は石棺にするしかない。核廃棄物も地下に埋めるしかなく、災害列島日本では処分はできない。内閣府の有識者懇談会が2020年4月に公表した日本海溝・千島海溝沿いにおける最大クラスの震度分布・津波高等の推計では、マグニチュード9クラスの地震を想定し、津波高は30mにも及び、被害エリアに原発は12基もあります。重要なのは決断なんです。今世界は、自然エネルギーが急拡大していて、国際再生可能エネルギー機関の試算では、2050年には自然エネルギーは全体の8,9割に高まる。つまり、原発が無くても十分にやっていける。我々原自連は、自然エネルギーを6割くらいにしなきゃいかんと提言しました。一刻も早く原発の停止処理に入らなければいけません。
生き残っていく為には自然生態系との多様な協調、共存しかありません。日本の産業界は、日本気候リーダーズ・パートナーシップ(JCLP)という脱炭素社会の実現に積極的な行動をする日本独自の企業グループが2009年に発足し、RE100という、事業活動で消費するエネルギーを100%再生可能エネルギーにする目標を持つ国際的な動きに加盟する日本企業も88社となりました。日本も含めて世界で、制度や政策を見直し組み変えなければなりません」
「私達一人ひとりが声を上げなきゃいけない」と湯川も強く述べました。最後に、中川氏の応援にお越し下さっていた小泉純一郎氏が「健康で頑張りましょう」と締めくくられて終演となりました。中川氏のレジメに綴られていた魂へ語る貴重なお話に参加者の方々は心を新たにされていました。中川氏、小泉氏、本当に有難うございました。
第21回目の木曜塾は、歌謡界で数々のヒット曲を生み出されている弦哲也氏をお迎え致しました。「物凄く声のいい方ですから、何とか歌って下さい、歌唱指導もして下さい、とお願いしています」という湯川の司会に会場内から拍手が沸き起こる中、弦哲也先生のご登壇となりました。
一般公募された楽曲をプロの歌手が歌うNHKの番組「あなたのメロディー」で、湯川が審査員を務めた時に弦氏と出逢いました。弦氏は全国から寄せられた曲をギターで弾いて数曲に絞る選曲係でした。弦氏は3,000曲近くを作曲する日本を代表する作曲家であり、日本音楽著作権協会会長をお務めです。
「14歳、総武本線の松岸駅から東京に出て、作曲家の大沢浄二先生の内弟子に入り、歌手として昭和40年17歳でプロデビューします。芸名は田村進二。デビュー曲の‘好き好き君が好き'は、8ビートで、全く乗ることができずに空振り。弦哲也に改名後も、空振り続きでした」と身の上話から穏やかにお話が始まりました。
空振り続きのそんな時、歌手の北島三郎さんから、一緒に旅しないかと誘われ、2年半ほど日本全国を一緒に旅をします。そして旅も終わる頃に北島さんがこんな話をします。
「弦、お前今でも歌手の夢を捨てきれないで居るのかい? 男のロマンだよな。わかるよ。でも嫁さん、子供を食わせていかなきゃいけないだろう? 音楽の道で生き抜いていくには、作曲っていう道もあるぜ。こんな俺でも歌作ってるんだよ。お前だってできないことはないぜ」と、その頃に作った歌を歌ってくれたそうです。
『作曲! この道があったんだ』と、無性に歌が創りたくなりましたと弦氏。なかなか日の目を見られなかった頃、将棋棋士の内藤國雄9段に作った「おゆき」という曲で、幸運にもこの初めての作品がヒット賞を頂き、生後4ヶ月で両親に預けていた5歳になる息子を引き取ることが出来たそうです。
「作曲家になって幸せだったなと思うことは、石原裕次郎と美空ひばりに歌を提供できたこと。裕次郎さんが病気療養中、とても体調がいい時に、「北の旅人」のレコーディングに立ち会い、その5ヶ月後に裕次郎さんは天国に旅立ちました。あの時の裕次郎さんの真っ黒に日焼けした笑顔と握手した手のぬくもりは今でも忘れることのない大切な宝物です」と、ギターの弾き語りで「北の旅人」を歌って下さいました。
歌唱指導の曲は「天城越え」、「与作」。会場中の皆様が「ヘイヘイホー」「トントントン」と元気良く歌われていました。他にも「月の砂漠」、「おもいでの岬」、そして、「天城越え」の弾き語りを堪能させて頂きました。湯川から「土下座するくらい、本当に素晴らしかった。有難うございました。素敵だった~。もうこんな贅沢な時間はありません」と感激の言葉で終演となりました。参加者の方からも「今の時代の明るさではない、昭和の憂いや哀しみを帯びた音楽に今夜は酔いしれました」と感想を頂きました。弦先生、本当に、有難うございました。
第20回目の木曜塾は、昨年2月にお迎えした元内閣総理大臣・小泉純一郎氏に続き、総理大臣経験者のお二人目となる鳩山由紀夫氏をゲストにお迎え致しました。湯川の人脈は広く、木曜塾にお迎えするゲストの方々をご覧頂いても、音楽業界のみならず様々な分野での交流があることにビックリ致します。エイトスターでは、とりわけ鳩山氏ご夫人とは30年以上も前にご縁を頂いていたのですが、ファーストレディとしては勿論、多くの方がご存知なのは、湯川も所属していたコーラスグループ“スワン・シスターズ”のメンバーとしてでした。
「素敵でしょ、何より素敵でしょ…」壇上にすらりと立たれた鳩山氏を見つめながらの湯川の第一声に会場内の空気が一気に和らぎました。先ずは、歴史を回顧するお話からスタートしました。
日本が朝鮮半島を統治していた時代に、朝鮮独立活動家たちが収監されていた西大門刑務所(※1)。
2015年8月、その跡地を鳩山氏が訪れ、独立活動家たちを偲ぶモニュメントに献花をした後、鳩山氏がひざまずいて謝罪された際の心情を湯川の問いかけでお話されました。当時国内では、「謝罪外交」等と揶揄されましたが、心から詫びるという謝罪の本当の在り方とはどのようなことか日本国民は深慮(思索)しなければならないと視点を述べられました。
『本当にUFOに乗ったことはあるの? 』と湯川が突然投げかけます。通称‘宇宙人'と呼ばれている鳩山氏ですが、客席にいらした夫人が代わりに「ありま~す」と朗らかに答えられ、会場を大いに湧かせました。夫人に応援されて政治家になろうと決心されたお話、コロナワクチン接種の危険性、拝米中毒への危惧と話題は次々と移り、湯川が最も懸念している地球温暖化や食糧危機について問いかけると、ブルーカーボン(※2)について言及され、海洋国として日本は政策的にやるべきであること。食糧危機に関しては、遺伝子組換食品に代表されるアメリカの戦略的な管理への危惧等から、ロシアとの友好を深める必要があると言及されました。
鳩山氏が提供された資料「緊迫する国際情勢と日本の立ち位置」を元に「21年後には100年にもなる在日米軍基地駐留の異常性、ウクライナとロシア、中国と台湾の関係」についてのお話に皆様は真剣に耳を傾けていらっしゃいました。山積する課題をクリアーするには、政治家の誰が旗振りをするのですか?という問いかけに、「たとえ微力でも無力ではない。一人でも良い人を育てて真剣に考えていきましょう」と鳩山氏は締めくくられました。現実を踏まえた上で、ご自身のお考えをこれ程までに明言して下さったことに参加者の方々は感無量のご様子でした。鳩山氏、多岐にわたる示唆に富んだお話を有難うございました。
※1:西大門刑務所: 祖国独立のため日帝の侵略に立ち向かい闘い投獄され、残忍な拷問と弾圧を受け、殉国した先烈らの魂を称え、後世に自主独立精神を伝える歴史の生きた教育の場とすべく、1998年11月5日、跡地に「西大門刑務所歴史館」が開館される
※2:海中・海面付近にある生態系によって吸収・貯留された炭素のこと。陸地にある森林等が吸収・貯留した炭素のグリーンカーボンと区別するために、呼び分けされている
第19回目の木曜塾は、江原啓之氏をお迎え致しました。昨年の5月にご出演下さった時と同様に、情報解禁と共に非常に多くのお申し込みを頂戴し、席数の倍以上のキャンセル待ちを承りました。キャンセル待ちとしてお待ち頂いた大多数のお客様のご要望にお応えすることが出来なかったことを、改めて深くお詫び申し上げます。
会の翌日発刊予定の江原氏の新刊『大切な人を失ったときに-この悲しみはどうしたら癒えるのでしょう-』 (小学館)を湯川が紹介した後、会場の「えはら」コールと共に、色鮮やかなパッチワーク仕立ての浴衣風の服を纏われた江原氏がご登壇されました。幾つかのワンポイント・トークの後、昨年ご出演頂いた際に予言されていた“お米がスーパーから消える”話題となりました。巷では、6月頃から米不足の話題は頻繁に取り上げられていましたが、その理由は3ヶ月経った今でも定かではありません。異常気象による出来高の問題なのか、備蓄米の供給の問題なのか、出所不明の噂で買占めが始まっていたからなのか、真相はつかめないまま人々が価格高騰だけに翻弄されている現状です。前回も江原氏は沼津でお米作りをされていらっしゃり、皆さんに自給自足の生活を強く勧められていました。
続いて、心霊研究者としてのお話となりました。スピリチュアリズムはハイとローの二つに分かれること、霊能者の見極め方、自然霊・神道の定義、正しい参拝の在り方、そして自分自身の守護霊の役割についてなど、スピリチュアリズムの第一人者ならではのお話を伺う機会となりました。加えて、日本文化である言霊を知る人が少なくなっていることへの危惧や、日頃、音として口に出してしまうと間違いなく不幸せになる音霊についてお話し下さいました。私達が日々の生活を健やかに過ごしていく為に、幅広い分野での示唆に富んだお話を、分かり易い形でご提供下さる江原氏ですが、最後に、いくつかのお祓いの方法を伝授して下さいました。
神道では『振魂(ふりたま)』と呼ばれるもので、自分自身が身に着けている中で、一番大事な(自分の魂と一体化している)物を用いて行う方法です。(エイトスター・ダイヤモンドをお持ちの方は、是非、エイトスターで)手の中に入れたその一番大事な物を丹田の位置に構え、肩の力を抜き、地に足を付け安定させ、背中を真っ直ぐにして、自然な呼吸で、「“自分の魂が手の中で綺麗に綺麗に綺麗に磨かれていく”という想念を持って行って下さい」と江原氏は優しく包むような声で先導されました。数分の振魂の後は、もう吐き出せませんと言うくらいに息を全て吐き出し、また自然に吸いリラックス。参加者の方々は、会場内が明るく澄んだ時空となる体験をされていました。この他にも音霊を使ったお祓い等、江原氏もお話されたいことがまだまだおありのご様子でしたが、「また今度お話します・・・」と名残惜しい気持ちを抑えながら締めくくられました。
「本当に有難うございました。もし私がちゃんと来年も木曜塾をやれていたら来年も必ず来て下さい。それを楽しみに生きていきたいと思います」との湯川の熱烈ラブコールに、会場は大きな拍手と歓声が起こりました。江原氏、有難うございました。