Report レポート

  • 20245/9Thu
    第16回

    松元ヒロ

    (スタンダップ・コメディアン)

     第16回目の木曜塾は二回目のご出演となる松元ヒロ氏をお迎えしました。5月3日の憲法記念日に因んで、今回は、ヒロ氏の有名な持ちネタである「憲法くん」をお聴きしたい、という湯川の希望でご登壇頂きました。
     湯川の兄が出兵前に口ずさんでいたという曲「スリーピー・ラグーン(午後の入り江)」は、真珠湾攻撃の時には全米で人気音楽番付(ヒットチャート)では1位になっていたそうです。その曲と伴に、戦争で亡くなった兄との想い出が湯川の心には深く刻まれています。日本は敗戦し、後に日本国憲法が作られ、恒久の平和を念願しました。現在、ニュースで流れる世界情勢を見ても、また日本でさえ、取り巻く諸国の情勢や海域などの課題は楽観視で きないことばかりです、と二人の話は続き、ヒロ氏の有名な持ちネタである「憲法くん」へと繋がって行きました。
     「憲法くん」は、身体全体が「憲法くん」となったヒロ氏の自己(憲法くん)紹介で始まり、日本国憲法前文全てを訴えかけて会場を感動の渦に巻き込みます。
    「日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民と協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらはこれに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の内に生存する権利を有することを確認する。われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけて、全力をあげて崇高な理想と目的を達成することを誓う。」-日本国憲法前文
     前文を熱く語り終えた後、憲法くん(ヒロ氏)は次のような言葉で締めくくりました。
    「僕は今初心に戻りました。皆さんが頑張れと言われればまだまだ頑張ります。でもある一部の人々は私の事を自虐的だとかプライドがない、もっと誇りを持てとか仰います。でも私はこの77年間、たった一度も戦争という名前で他の国の人々を殺したことがない!そのことを誇りに思っています。しかしこの私をどうするかは皆さんが決めることです。私は皆さんの私なのですから。では私を今日の皆さんに託しましたよ。」とメッセージを託して語りを終わられました。
     下向き加減に目頭を熱くされていらした方も多く、改めて憲法くんを通して平和の意味を感じられていたのかも知れません。松元ヒロ氏、有難うございました。

  • 20244/11Thu
    第15回

    石井幹子

    (照明デザイナー)

     第15回木曜塾は、都市照明からライトオブジェや光のパフォーマンスまで幅広い光の領域を開拓する照明デザイナーとして、国内外でご活躍されている石井幹子氏をお迎えしました。東京藝術大学美術学部卒業後、見識を深めるために、1965年に日本を飛び出しフィンランドに向かったというお話は、その時代を考えると、強い意志の顕れだと想像します。
     戦後シベリアの収容所でお父様が亡くなり、お母様方の祖父母のもとで石井氏は育ちました。時代はまだ「女の幸せは結婚」でした。大学在学中もクラス36人中女性は6人。「どうせ君たちは卒業しても働かないから国費の無駄遣い」と教授から言われた時代です。
     卒業後、照明器具のデザインを手がけた時、照明に光が灯った時の光の素晴らしさに感動し、照明デザインへの意欲が生まれ、揺るぎ無い志となります。当時世界を席捲していたスカンジナビアデザインの本に掲載されていた女性デザイナーのリサ・ヨハンソン・パッペ氏に学びたいと、手紙と自分の作品集を送り、結果、フィンランドでアシスタントデザイナーとなります。横浜からソ連船でウラジオストック、そこから汽車、途中飛行機に乗り、モスクワから夜行列車でヘルシンキ
    に。そんな時代でした。その後、ドイツの会社にスカウトされ、そこで建築照明での実績を積みます。帰国して石井幹子デザイン事務所設立しますが、当時の日本は、機能的な明るさをとる照明が一般的で、空間を変えてしまうような照明デザインが認められるか未知でした。しかし、日本の錚々たる建築家たちに石井氏の照明デザインが認められ、大阪万博では5つのプロジェクトで寝る間も惜しむ忙しさでした。
     会場では作品を映像に映し出しながらご紹介くださいました。日本での代表作品は誰もが知る東京タワーやレインボーブリッジです。日本ではライトアップを広めるために8年間手弁当で色んな街を照明して歩いたそうです。最初に街の景観照明が実現したのは横浜市のライトアップ・フェスティバル。普段の夜の税関の建物の画像の後、照明した税関の画像が映されました。「光の効果って凄いんですよ。昼間は、太陽光線が満遍なくどれも照らしだしますけど、夜は、この街らしさを演出するものだけに光を当てていく。すると、その街の歴史が見えてくるし、またある意味では未来も見えてくると思うんですね。」と秘めた光への熱い想いをお話されました。手がけられた作品は数えきれず、世界中から100を超える賞を贈られたそうです。
     最後の映像は『ジャポニスム2018 エッフェル塔日本の光を纏う』です。日仏友好1 6 0 年を記念して、2018年7月から2019年2月にわたり、大型日本文化紹介事業「ジャポニスム2018:響きあう魂」をフランスで開催した時の作品です。照明家として海外で活躍されているお嬢様の石井リーサ明理氏と一緒にプロデュースされたもの。金色に輝くエッフェル塔に、尾形光琳の杜若を映した動画は圧巻でした!照明の世界で金色を描く事は究極の技だそうです。
     石井幹子氏、素敵な作品とお話を有難うございました。今後の光の世界でのご活躍をお祈りして閉会致しました。

  • 20243/14Thu
    第14回

    加藤登紀子

    (歌手/シンガーソングライター/女優)

     第14回目となる木曜塾は、歌手に留まらず幅広くご活躍されている加藤登紀子氏をお迎えしました。「昔は、シャンソン好きじゃなくあまり聞いていなかったんです」と、笑いを誘う湯川の話で始まりました。
     「お互いに戦争体験をしていても、歳が近いと思われてはお登紀さんがお気の毒です。終戦時には私は小学4年生(9歳)、お登紀さんは2歳半で満州(ハルピン)から引き揚げて来られました。」と、加藤氏の若さを強調して会場内にお呼びしました。
     ステージに上がられた加藤さんは早々に、終戦時に母親から『アメリカが上陸してきて辱めを受けるようなことがあったらあなたも私と同じように死ぬのよ』と自害の仕方を教えられた経験がある湯川に、「そんな強烈な体験を持つ人がアメリカの音楽を日本に紹介する人として第一線で活躍するんですよね…」と話され会場を沸かせました。そして、「シャンソンがあまり好きではなかった」という湯川の発言については、「戦後、シャンソンに流れていく傾向の人とアメリカの(音楽)方に流れていく傾向の人があって、どちらかというと陰と陽だった」と話され、戦争に勝ったアメリカとヒトラーに負けたフランスを対比させながら、しっかりプライドを守って抵抗を続けたフランスについて強調されていました。戦争への示唆に富んだ話を背景に、世界のスターになるためにアメリカに進出したフランス人のエディット・ピアフとドイツ人のマレーネ・ディートリヒとの関係、加藤氏の大先生でもある石井好子先生の意外なエピソード等々、お話は次から次へと飛び出しました。
     実は、加藤氏の獄中結婚のお話は有名ですが、湯川がお登紀さんに憧れるきっかけとなったのは加藤氏の著書『絆(獄中往復書簡、141通) 』でした。「こんなロマンティックな恋をした人って‘すげーな’」と、湯川には衝撃だったようです。「(獄中結婚された藤本さんって)いい男だったんでしょう?」との問いに、すかさず「とっても!」と照れながら応えられる加藤氏がとても魅力的でした。夫である藤本敏夫氏は学生運動の指導者でした。続いて加藤氏の古い著書に書かれた「いい男とうまく付き合う方法」について触れて、「いい男は他の人にも好かれる。ここが問題なのよ」と、パートナーとの関係を色々とお話し下さり会場は盛り上がりました。舞台上にお一人となった加藤氏は更にお話を続けられ、賛成派や反対派等「国が作り出すあらゆる分断に向かって断じて許さない、人々を分断するあらゆることに私は我慢しない」という世の中の情勢への強い意思を語られ、会場のお客様を釘づけにされていました。一途に歩まれて来られた人生は、お話を伺ってみないと知る由も無い道程でした。
     最後にギターを手にした加藤氏からはサプライズの歌「悲しき天使」と「百万本のバラ」が贈られました。ステラの会場で間近にお聴きする加藤登紀子氏の歌。なんて贅沢なひと時だったでしょう。有難うございました。

  • 20242/8Thu
    第13回

    東儀秀樹 

    (雅楽師/音楽家)

     第13回目となる木曜塾は、雅楽師・作曲家であられる東儀秀樹氏です。ステージにはスタンドマイク2本、エレキギター2本、ステージ横にピアノが並び、これから始まる演奏に皆が胸を躍らせる中、湯川の挨拶から講演会が始まりました。
     「東儀氏と初めてお目にかかったのは32年前だったと思います。当時はまだ無名の宮内庁楽部に在籍していた楽師でした。中国から伝わった雅楽というものを、1,000年以上に渡り継承し続けている家系にお産まれになられました。東儀さんの演奏は研ぎ澄まされたような雅楽の歴史を感じますが、それ以上に奥行きが広くて本当にあたたかいです。」早く対談をしたい湯川が東儀氏を壇上にお招きすると、片手に雅楽の楽器を持った東儀氏が颯爽と登壇されました。
     東儀氏は、「僕は皇居に勤めていたとか、1,300年続く雅楽の家系だとか、(周囲の人達に)皆さんの中に先入観が入ってしまっていて、ものすごく真面目で堅苦しい奴だと思われている。」湯川は間髪入れずに「だってそういう顔してるもん!」と返すと、「顔で判断しないでください!!」と、2人の漫才のような掛け合いに会場は笑い声に包まれました。「大抵の人は僕のことをそう思っています。面白いことを何も言わないというか、石橋を叩いて渡るタイプだと。僕は石橋があったらそれを飛び越えていくタイプです。でも、あまりそうは思ってもらえない。」多数のお客様が頷く様子を見た東儀氏は、「その誤解を解きたい!今日は皆さんのその思いを払拭します!」と力強く宣言し会場から拍手が起こりました。
     湯川が東儀氏のお父様と一緒にインドへ行った思い出話を伝えると、「父は普通の商社マンで、東儀家は母方の家系です。母が父に嫁いだ瞬間に雅楽をやる家系ではなくなっています。僕の幼少期に雅楽をやれと言われたこともないし、自分でも雅楽師になろうとは微塵も思っていなかった。父が商社マンなので僕は外国で育っていたし、雅楽の環境がより遠かった。ですが小学校の時から、『うちは雅楽の家系』ということは聞かされていた。」雅楽の環境から離れていても音楽が好きだった東儀氏は、「幼稚園の頃からビートルズが好きで、いつもビートルズのステージ写真を持って幼稚園に行っていました。父はクラシックが好きで、母はミュージカルや映画音楽が好きで、童謡を歌って聴かせてくれて、幅広い音楽を楽しみながら育ちました。小学校の後半からギターを弾き始めて、中学校の時にバンドをやるようになって、高校の時もバンド活動を続けていたので、将来は音楽の方面に行きたいと考えていました。高校2年の時に母から『音楽をしたいなら東儀家なのだから雅楽をやってみたら?』と言われて、ロックをやろうとしている高校生に雅楽を勧められたら、普通は『ふざけんじゃねぇ!』となるでしょ?でも海外に住んでいると日本人ということが浮き彫りになります。周りの友達が日本を誤解していると、それに対して逐一訂正をして、今の本当の日本を伝えたいという大使館員になったような気持ちになります。そこを経て大きくなったので、母に雅楽を勧められた時も、日本人が日本の文化を背負うってものすごく価値のあることだなと思いました。」雅楽を始めたきっかけは家系よりもご自身の生い立ちに起因しており、東儀氏の「好きなことはやり続ければいい」という言葉に、会場のお客様も深く頷き、熱意の籠った言葉一つ一つに深く頷きながら聞き入っていらっしゃいました。
     東儀氏のご子息、典親氏との共演ステージは圧巻の一言で、雅楽の楽器やギターやピアノをセッションされ、親子の息の合った演奏は然る事ながら、典親氏の
    15歳とは思えない立ち振舞いに会場は大いに沸きました。お二人の心躍る演奏に感謝申し上げます。東儀秀樹氏、有難うございました。

  • 20241/11Thu
    第12回

    大德寺昭輝 

    (アーティスト/天命庵主)

     第12回目となる木曜塾は、大徳寺昭輝氏です。年明けの恒例となっている大徳寺氏の講演会が今年も木曜塾で開催されました。
     「明けましておめでとうございます」と新年の挨拶をした湯川は、元日の能登半島地震に触れ「なかなかおめでとうとは言いにくいですね。辰年だからってどうして元日にあんなことが起こるのでしょう。干支には色んな意味があるのでしょうけれど。早くそのことを彼に聞いてみたい。」と大徳寺氏の登場を急く湯川は、時間が勿体無いと直ぐに対談へ移りました。
     湯川に辰年の意味を尋ねられた大徳寺氏は、「辰年は2月3日節分からで、正確にはまだ卯年です。特に昨年の卯年は『扉を開く』という意味がありました。思い返してみると政治の扉が開きました。宗教の扉も開きました。色々な扉が開いた後の今年は甲辰(きのえ・たつ)になります。甲と辰が重なるのは60年に一度で『物事が始まる』という意味があります。ですので『扉が開いて始まる』ということです。私は昨年、おやさまに大変なことが起こると言われて能登半島の珠洲市(すずし)に何度も訪れお祈りを捧げていました。」悲しみと悔しさを滲ませながら、大徳寺氏は昨年と今年の干支の意味を解説して下さいました。
     大徳寺氏が以前お話する機会のあった、とあるドクターから「子供はお腹の中にいる時に母親のDNAが入っていく。どうやって入っていくのか医学的には分からないけれど、男性も女性も母性を持ってこの地上に産まれてくる。」という話を大徳寺氏から聞いた湯川は、「確かに全ての命は母親から産まれてくる。この時代は男性性が強くて、どこも対立して戦うことを止めないけれど、争いが続けば人類の破滅しかない。それは全ての生あるものが破滅するということです。そのことの愚かさに私達が気付いて変わっていかなければいけない。その為にはどうしたら良いのか考えなければならない。」2人は混沌とする世界情勢を憂いて、葛藤する胸の内から何か答えを見つけようと熱く語り合いました。
     対談後に、元日の能登半島地震による震災と、二日に起きた日本航空機と海上保安機の接触事故への黙祷を、会場の皆様と共に捧げました。
     対談後はご自身の半生についてユーモアを交えて語られました。プロテスタント系の高校在学中に「あなたの聖書の解釈は素晴らしい。牧師になりなさい。」と教師から言われ、「私はお坊さんになります」と答えて周囲を驚かせた大徳寺氏。高校を卒業後すぐに天理教に帰依し、湯河原に天命庵という庵(いおり)を結ばれました。「世の中の皆様を正道に導きたい。その一心でずっと歩いてきました。」大徳寺氏の曇りのない瞳には確かな使命感が宿り、ご自身の選んだ選択に一抹の悔いも無いと話されました。社団法人設立の際は、自分の利益の為に事業を起こすことに難色を示していた大徳寺氏でしたが、とある高齢女性から「あなたのおかげで私は随分と助けられた。本当に幸せになった。私が生きている間に何かさせて下さい。でもこれはあなたの為にではないです。」この言葉を聞いた大徳寺氏はハッとなり、「そうか。私の為ではない。未来の為だ。」と、気付きを頂いた女性へ感謝が絶えないと話されました。
     先代・田村富保を思い出し、この場所(旧:天夢/新:ステラ)から色々なご縁が繋がったと涙ぐまれた大徳寺氏。新年から多くの学びとともに心温まる会となりました。大徳寺昭輝氏、有難うございました。

  • 202312/14Thu
    第11回

    DJ OSSHY

    (DISCO DJ)

     第11回目となる木曜塾は、クラブDJでご活躍中のDJOSSHY氏。フリー・アナウンサー、押阪忍氏と栗原アヤ子氏のご子息で、『エス・オー・プロモーション』代表取締役社長も務められています。クリスマス前の開催だった為、ステージ上には湯川が企画したクリスマス・プレゼントが並び、来場されたお客様の中にはサンタの帽子を被られている方々もいらっしゃったりと、クリスマスを先取りする煌びやかな空間に湯川も興奮しながらOSSHY氏を会場に呼び込みました。
     登壇されたOSSHY氏は「安心・安全・ディスコカルチャーの伝道師、またの名をDJ界の氷川きよしと自称しております。高齢者の味方だからです。更にお金では
    動かないことからDJ界の大谷翔平と、こちらも勝手に自称しております。」と、満遍の笑みで自己紹介をされ、冒頭から会場中が拍手と笑い声に包まれました。
     1977年に公開されたアメリカ映画『サタデー・ナイト・フィーバー』がきっかけで、日本中が“ポスト・ディスコ"(1970年代後半から1980年代前半にかけてのディスコ・ミュージックの音楽・ムーブメントを指す言葉)がブームとなり、その渦中の1981年に初めてディスコを訪れたOSSHY氏。「私の両親は全国区のアナウンサー・タレントで、テレビを点けると毎日必ず出演していて、父は『アナウンサーとは“クリーンなイメージ" 』ということを一番大事にしていました。その息子が非常にダーティーなイメージのディスコに出入りしている。若者にとっては人気の象徴として、まさにエンターテイメントの場ではありましたが、社会的には白い目で偏見を持って見られるような時代でした。いわゆる夜の世界。お酒や煙草、不良達が集う場所がディスコ。そこでDJをしていたら不良達のリーダーというイメージがあり、両親ともに大反対でした。何故そこに通い何故そこで働こうとするのか全く理解出来ない、両親からそう言われる時代でした。」その時代を知る湯川や会場のお客様は一様に頷きながら聞き入りました。「私が今まで約42年DJ業を続けてこられた原動力は、厳格だった父親に如何に認めてもらえるか、それだけを目標にして“あの手この手"で創意工夫をしてきたからです。2002年に親子で楽しめるディスコ・パーティーという企画を、私が現場で担当させて頂き、大変話題になりました。親子で同じ曲を一緒に踊って楽しむ、ディスコを休日の昼間に楽しむなんて考えられない時代でしたが、これを単発で終わらせるのは勿体無いと直感し、自分で企画して毎年行おうと決めました。最初は40人ほどからスタートしましたが、今では十倍の400人ほどになりました。その光景を見た父親が初めて『お前のやっていることは子供も楽しめるのか。子供も一緒に参加出来るのか。それは良いな。』と言ってもらえた。そこに行き着くまで20年かかりました。それまで父は口をきいてくれませんでしたから。親子で楽しめるということで初めて耳を傾けてくれました。」達成感と安堵の笑顔で語ってくださったOSSHY氏に、湯川も「嬉しいわね!それは本当に良かったわね~!!」とOSSHY氏の苦節20年を包み込む笑顔で応えました。
     OSSHY氏は全国の老人ホームや介護施設でシルバー・ディスコを開催しており、対談後は『座って楽しめるディスコ』を皆様にご体感頂きました。往年のヒット曲に合わせて皆で身体を動かすと、自然と不思議に笑顔が溢れました。音楽と踊りを融合したディスコに魅了され、活動を続けてこられたOSSHY氏の会は会場全体
    がキラキラな笑顔と熱気に包まれ、まさにクリスマスに相応しい会となりました。DJ OSSHY氏、有難うございました。

  • 202311/9Thu
    第10回

    中森じゅあん

    (鬼谷(きこく)算命学の大家)

     第十回目となる木曜塾は「日本算命学会」代表の中森じゅあん氏です。「40年来の友達で算命学の大家です」と、湯川から紹介され鮮やかな青い衣装に身を包 んだ中森氏が登壇されました。湯川から椅子に座るよう促された中森氏ですが、「座ると寝てしまうから」と断わられ立ちながら対談が始まりました。
     「算命学を話す前に何も知らない初心者でも分かるように」と湯川が切り出します。「占いというのは紀元前からあって、世の中に占いというのは3,000種類以上あるそうです。占いを大きく3種類に分類しますと、一つは 生年月日、生まれた星で占うもの。算命学も宿曜占星術も数秘術も九星気学もそうです。二つ目は卜術(ぼくじゅつ)という偶然の要素を使って占うもの。全ての事象は必然で起こっているものだから。タロットやルーンや易学、おみくじもそうです。三つ目は相術といって手相です。お化粧をどうしたら良いかなどを顔相と言ったりします。玄関をどうしたらいいか、方角はどうしたらいいかなどの風水も相術です。」湯川が占いについて説明をしている間に、中森氏は算命学で観た湯川の結果をホワイトボードに貼り付け、算命学を話す準備を整えました。
     「宇宙の法則に沿って生年月日というものを星に変えて、4,500年以上前に中国で陰陽五行説というものが生まれました。それは中国が世界に誇る思想哲学です。そのお手本は全部自然です。天地合体というのは時間と空間を併せたものです。こんな話をすると面倒臭くてややこしくなりますが、実際に私たちは自然の法則・宇宙の法則・森羅万象の中に生きていながら全然違う生き方をしている。算命学が教えていることは、自然の法則・宇宙の法則を全部一つにして、一人一人の生年月日からそれぞれの生き方を分かるようにしたものです」。算命学では湯川は“雨”、中森氏は“灯”で相性は悪いそうです。「それでなぜ40年も友情関係が続いているの?」と湯川が尋ねると、「要するにバランスです。人生と同じで良いものばかりが自分を助けてくれると良くない。森羅万象とはそういうことです。」一つとしてみた時に良し悪しを含めて全てある状態が一番いいのだと中森氏は話されました。湯川は先代の田村が“金”だったことを思い出し、自分が“雨”では錆びてダメだったのかと中森氏に尋ねると、「違います。逆に田村さんがあなたを人間として強くしました。」と答えられ、「そして今年は雨の年です。あなたにとって色々な意味で新たなスタートとなった年です」。それを聞き今年は大変な年だったと湯川が 思い出しながら話すと「あなたは王様だから楽をしたらダメなんです。エネルギーが凄く強い。エネルギーが強いということは困難に遭ってこそ活きる訳です。」中森氏の言葉に湯川は頷きながら聞き入っていました。
     運という字をどう思われるかと中森氏は観客に聞き、「右は軍隊です。左のしんにょうには行くとか立ち止まるという意味がある。運というのは本来は戦いです。戦うと言っても戦争をするとかではなく、ストラテジー(軍略) ということです。人生戦略。楽なことばかりだといずれ大変なことが人生にやってきます。それには自分を知って相手を知って、あるいは経営者であれば部下を知って、家族であれば一家の全部の星を知って、そうすると色々な人の持って生まれたものが分かります。」中森氏の算命学は日頃滅多に触れることの出来ない貴重な体験となりました。中森じゅあん氏、算命学の神髄をお話下さり有難うございました。

  • 202310/12Thu
    第9回

    和田秀樹

    (日本大学常務理事/ルネクリニック東京院 院長/日本映画監督協会理事)

     第九回目となる木曜塾は数多くの著書を世に送り出し、『和田秀樹こころと体のクリニック』の院長を務められている和田秀樹氏です。湯川から和田氏の著書の紹介があり、拍手の中で和田氏が登壇されました。
     「沢山お集まり下さり有難うございます」と和田氏が話された後、「映画の初日、舞台挨拶の日だけはお客さんが沢山いらっしゃられるけれど、その後に映画館を見に行くとちょっとガックリすることが多いので、沢山お客さんが来てくれることは本当に嬉しいです」と、映画監督でもあるご自身の体験からも感謝を述べられました。
     対談では湯川が一番聞きたいことを和田氏に尋ねました。「コロナで鬱になった人が非常に多いと思う。コロナの為だけではなく競争社会の時からそうだった。働き盛りの時に鬱になることが私の周りにも多くて...。心療内科って日本に沢山ありますけど、心療内科に行ってもアメリカのようにセラピストとして話を聞いてセッションをしてくれるということが日本には無いですよね。」これを受けて和田氏は「日本の保険制度の問題で、患者の話を5分聞いても30分聞いても、(病院に)入ってくるお金は全く同じです。そういう問題が一つあることと、お医者さん達もなるべくお薬で治そうと思う方が多い上に、大学の心療内科や精神科の教授というのは教授会の選挙で選ばれます。精神科に限ったことではなく内科の先生も外科の先生もみんな心の問題に関心が無いようで、日本には82も大学の医学部があるのに精神科や心療内科の主任教授の専門分野がカウンセリングの人が一人もいない。薬の研究をしてきた人達ばかりです。結局、他の科の先生が選挙で選ぶので論文の数で決めるということになる。これは重要な問題で、大学の医学部では6年間授業を受けますが心の問題の授業を受けられるのは精神科の時だけです。精神科の授業でしか心の問題を聞けないのに、精神科の教授がカウンセリングの専門ではないので脳内から分泌される物質の話ばかりになる。どうやって(患者さんと) 面接をするのかということを医学部の6年間で全く習わないので、精神科だけの問題ではなく、カウンセリングや心の問題を扱っている教員が医学部にいない状況が日本の大きな問題だと思います。」 深く共感しながら聞いていた湯川は「病は気からと言うように、病気って精神的なストレスとか苦しみから引き起こるものじゃないですか?病院に行ってお医者様とお話をして色々伺いたいと思ってもずっとパソコンを触って画面を見ていて、時々チラッとこちらを見るくらいでとても心の領域なんかに入りようがない。」湯川の言葉に多くの方々も頷きました。和田氏は「人間ってもちろん薬で治さなければいけないところもありますし、色々な体調 の不調もあるのだろうけど、最後はやっぱり心が元気にならないと全体的な意味で元気になったとは言えません。医者というのは病気を治すことは出来るけれど、今より元気になる方法を教えてくれない。歳を取れば取るほど栄養を沢山摂っている人の方が元気です。例えばメタボ健診で痩せろとか我慢しろとか言われる訳だけど、それを歳を取ってからも続けていると明らかに元気が奪われます。医学部の6年間の授業で栄養学は一秒も教えてもらえない。これが日本の医学教育です。」和田氏は憤りを隠すことなくお話をされ、共感と納得をなさった方々から盛大な拍手が送られました。和田秀樹氏、大変に貴重なお話を有難うございました。

  • 20239/14Thu
    第8回

    クミコ

    (歌手)

     第八回目となる木曜塾はシャンソン歌手のクミコ氏。「今でも私が自分でチケットを買って聴きに行く数少ないアーティストの一人で、歌を心に届けてくれる歌い手です。」にこやかに湯川が紹介した後、颯爽とクミコ氏が登壇され壇上に二つ、笑顔の華が咲き対談が始まりました。
     二人の出逢いを紐解く為、3・11東日本大震災に遡り ます。クミコ氏は宮城県石巻市でコンサートをする当日、楽屋にいらっしゃった時に震災に遭われたそうです。さぞ辛く怖かったことでしょうと寄り添う湯川は続けて「私は当時日本でコンサートしていたシンディ・ローパーに、日本のアーティストから募金を募りたいとお願いされたのだけれど、日本のアーティストは所属事務所から外出を禁止されていた。そんな中をクミコさんが真っ青な顔をして駆けつけて下さった。命からがら東京に帰ってきたところを来て頂いて本当に嬉しかった。」しかし、二人は3・11以前に会った記憶が無く、募金になぜ行ったのか、なぜ来てくれたのかを思い出せません。「あのような大変な出来事があったにも関わらず来てくれた。つまりクミコさんはそういう人なのです。」当時を振り返ると哀愁の記憶が大半の中、クミコ氏への感謝が尽きないと湯川は語りました。
     クミコ氏が最初に注目を集めて世に出たのはいつ頃か湯川が尋ね、2002年までクミコというカタカナの名前を知る人はほとんどいなかった、とクミコ氏が答えられた瞬間、「そう!今日聞こうと思ってたの!」と思い出した湯川は続けて、「最初つまらない名前で歌ってたわね。なんで?」その言葉を聞いたクミコ氏は「つまらないって何ですか!本名ですから!」会場中が大笑いの中、湯川が謝ります。「それは失礼しました。でもあの名前で歌ってもピンと来ないのよ。」クミコ氏はハッとした顔をして、「それは永六輔さんにも言われました。ここにチラシがあったとしても、誰一人あなたの名前を覚える人なんていないよって。実は別れた旦那の苗字を使っていたのでそれを取ってクミコにしました。」それを聞いた湯川は「あぁ、良かったわね。そこから拓けていったのね。ご苦労はされたのかも知れないけれど、ひたすら自分の好きな道をコツコツと歩いてきたものね。」クミコ氏ははにかみながら「そう言って頂けると格好が良いですけどね」と謙遜して答えられました。
     湯川から体が細いのに声量が凄いことを指摘されたクミコ氏は、「何十年も培ってきたものが一応ありますから」と答えられ、「それと暇だったからということもあると思います。若い時に全盛を極めるというか本当に(売れて)大変だった方々は、やはり声が痛みますから。私は幸か不幸かそういう時期に暇でしたので。あとはあまり練習をしないことです。私の場合は練習のし過ぎでダメになってしまうので、程良くやって本番に臨むことが一番いいと近頃やっと分かりました。シャンソンは年を重ねることが不利益にならないというか、逆に武器になるので、何よりも人生を一生懸命に生きることが歌に繋がるとこの頃は思っています。」
     対談後、クミコ氏は五曲披露して下さいました。しなやかに歌われたり力強く『ヨイトマケの唄』を歌われたり、最後には湯川が作詞をした『うまれてきてくれてありがとう』を豊かな表現で歌い上げて下さり、会場内に一体感が生まれました。クミコ氏、素敵な歌声を有難うございました。

  • 20238/10Thu
    第7回

    鎧塚俊彦

    (パティシエ/実業家)

     第七回目となる木曜塾は、パティシエの鎧塚俊彦氏。麦わらのハットを被った鎧塚氏が颯爽と登場されると、「私が鎧塚さんと深く関わることになったのは実は動物愛護です」と湯川が話し始めました。「奥様の川島なお美さんが愛犬にすごく愛情を注がれ、亡くなられた後も鎧塚さんが一生懸命に愛犬の面倒を見てらっしゃった。一番胸を打たれたのは、なお美さんが病気になられてからも、最後の最後まで明るく楽しくお二人で頑張られました」。鎧塚氏は「深刻に悩んで解決するならいくらでも深刻に悩みますけどそうではないので、例えばお寿司が食べたいと言われたらお寿司屋さんの格好で届けますし、楽しくなるように接していました。僕はパティシエですが、女優でも落語家でも漫才師でもみんな同じで、人を楽しませることで自分も楽しむみたいなところがある。女房もサプライズが好きでしたので僕もそこは一緒でした」。鎧塚氏の一途な想いが初見のお客様にも伝わりました。
     会で話すことは決めず、お客様の顔を見ながら進めると言う鎧塚氏。「僕はライブ感に拘っています。個人店がコンビニより値段が高い理由は手作りだからです。手作りだと何故高いのかというのを見せないといけない。6席のカウンターデザートを始めた時、回転率は寿司屋で客単価はラーメン屋、これは絶対潰れるぞ。と師匠から言われた」。店舗が増えた今でも儲からないけれど、お客様がお帰りの際に焼き菓子を買って下さったりすることで利益が生まれているそうです。
     「僕が大事にしていることは職人力です。お客様に喜んで頂く為に、どれだけ時間がかかったとしてもやり遂げる。それはプライドであったり自分が納得できたかということでもありますが。この話をするとパワハラや時間外労働が出てくるけれど、それは職人の悪いところで、若い世代に押し付けたり求めてはいけない。それらは全て改善しなければいけない。僕が言っているのは職人気質のことです。職人気質を残しながら時代に合わせた働き方をする。お客様に喜んでもらいたいと思う、その気持ちを残したいということです」。職人としての思いと経営者としての思い、矛盾するところが無く腑に落ちました。
     インスピレーションが煮詰まったことはあるかという質問には、「ピラミッドは何千年経ってもビクともしない。黄金比があって土台が広ければ広いほど上に積んでいける。ヨーロッパに居た時(修行中)はずっと横に広げ、お店を始めてから上に積み上げた。当時はそれが楽しくて、溜めていたもの出し切ったらまた新しいものが入ってくるという思いでやっていた」と答えられ、付け加えるように「スタッフにも『ひねるな』と言い続けています。長くやっているとオリジナリティを出したくなるというか。悪いことではないですが一部の新しいもの好きを除いて、基本的には珍しいもの・新しいものではなく、美味しいものを食べたいと思っている。そのことを忘れるなということです」。経験値から出る言葉に確かな自信と重みがありました。
     コロナ禍をどう乗り越えたのか、湯川が審査員を務めた音楽祭でマイケル・ジャクソンをやりグランプリを受賞したことなど、話は尽きないまま会の定刻は過ぎました。最後に湯川が「鎧塚さんがいかに真面目な人か、一生懸命な人かが分かったでしょう?」と言うと、会場から拍手と歓声が起こりました。鎧塚氏、有難うございました。